湯川秀樹 戦中の原爆研究に言及 京大が日記公開 - 毎日新聞(2017年12月21日)

https://mainichi.jp/articles/20171222/k00/00m/040/105000c
http://archive.is/2017.12.22-003604/https://mainichi.jp/articles/20171222/k00/00m/040/105000c

日本人初のノーベル賞を受賞した物理学者、湯川秀樹(1907〜81年)が、終戦期の45年に書いた日記を21日、京都大基礎物理学研究所・湯川記念館史料室が公開した。湯川が生涯を通じて公的な発言を控えていた原爆研究「F研究」に言及。広島原爆投下や時局に関する記述もあり、専門家は「第一級の歴史的史料」としている。
湯川は49年に中間子論でノーベル物理学賞を受賞した。戦時中、旧海軍が京都帝国大(現京都大)で進めたF研究を理論的に支えたことが他の史料などで知られるが、本人の記述はほとんど見つかっていなかった。
湯川の没後、遺族が38〜48年の「研究室日誌」「研究室日記」計15冊を史料室へ寄贈。史料室は分析を順次進め、45年1〜12月に書かれたB5判のノート3冊の内容を今回発表した。
F研究は44年ごろに始まったとされるが、45年前半に会議を重ねていた様子がうかがえる。
最初に「F研究」の文字が見えるのは45年2月3日で、研究の責任者だった原子核物理学者・荒勝文策教授らと相談したと記述。6月23日には、荒勝教授ら研究者11人と学内で第1回打ち合わせをしている。7月21日には「(大津市の)琵琶湖ホテルに行く」とある。F研究は明記されていないが、京都帝国大と旧海軍の合同会議が同ホテルであった日で、湯川の参加が裏付けられた。
広島原爆投下の翌日の8月7日、新聞社から「原子爆弾」の解説を求められたが断ったと記述。一方、同9日には新聞を引いて「威力は熱線が全体で数粁(キロ)に及ぶといわれている。落下傘で吊(つる)し、地上数百米(メートル)にて爆発」と書いた。
湯川は戦争の行方に強い関心を寄せている。45年6月に大阪に空襲があった際に「(京都で)日も赤く濁る」と記し、硫黄島沖縄戦の甚大な被害にも触れている。研究資料を避難させるため荷造りを進めるなど身辺が緊迫していた様子も読み取れる。
山崎正勝・東京工業大名誉教授(科学史)は「湯川が発言を控えた『空白期』だけに、研究の一端がうかがえる第一級の史料。戦時の軍事研究について史料保全、公開を進める機会にもすべきだ」としている。【野口由紀】

【ことば】戦時の原爆研究
太平洋戦争中、旧日本軍は極秘に原爆開発の研究を物理学者らに託した。海軍が京都帝国大の荒勝文策教授に依頼したのが通称「F研究」で、「fission(核分裂)」の頭文字を取って命名された。同じ時期、陸軍は理化学研究所仁科芳雄博士に通称「ニ号研究」を委託した。ただ、いずれも内実は原爆製造にはほど遠かったとされる。