沖縄中傷にも苦しむ 基地そばの学校「動かせばいい」 - 東京新聞(2017年12月22日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201712/CK2017122202000128.html
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米軍普天間(ふてんま)飛行場(沖縄県宜野湾(ぎのわん)市)周辺で、米軍ヘリコプターの部品落下事故の被害を受けた学校などに対し、批判や中傷が相次いでいる。米軍は事故から、一週間もたたずに同型機の飛行を再開させ、日本政府も容認した。市街地上空を米軍機が飛び回り、不安な日々が続く地元住民らは、心ない言葉に深く傷付いている。
米軍ヘリの窓が落下した普天間第二小を含む学校は、普天間飛行場を取り囲むように少なくとも十八カ所に点在する。
「学校をどかすのが筋だろう」「やらせじゃないか」。宜野湾市教育委員会によると、十三日の事故の翌日から普天間第二小などに計二十件の誹謗(ひぼう)中傷の電話があった。
市教委の加納貢指導課長は、米軍が古里に巨大な飛行場を造り、住民は仕方なく周りに住むしかなかったという「歴史的経緯を分かってもらいたい」と話すが、理解が進まないという。
米軍は一九四五年の沖縄戦で旧宜野湾村中心部に軍用滑走路を建設。住民計約八千八百人の多くが移住を強いられた。当時の住民に聞き取りを行った字宜野湾郷友会理事の宮城政一さん(74)は「(同飛行場は)親や先祖が住んでいた古里だ。『危険なら周囲の学校や家を動かせば良い』という主張には怒りを通り越して悲しみを感じる」と話す。
普天間第二小は六九年に開校し、初代教頭の宮城武雄さん(94)は「近くにほかに土地はなかった。基地があるから宜野湾市はどこでも危ない。基地がなかった頃は、松並木があり素晴らしかった」と振り返る。
八〇年代には第二小を別の米軍施設の返還地に移転する案も浮上した。ただ、第二小の敷地を米軍に提供するのが条件だったため断念したという。
同小に通っていた宮城一郎県議(50)は苦渋の決断だったとして「子どもたちの安全を図ることができても、基地拡大は住民に受け入れられなかった」と話した。
◆「土地追われできた街なのに」
七日に普天間飛行場所属ヘリの円筒形部品が建物の屋根で見つかった緑ケ丘保育園にも中傷が相次ぐ。原因が判明しておらず、米軍側が十一日に「飛行中に落下した可能性は低い」との見解を表明して以降、毎日のように悩まされている。
「そんなところにあるからだ」「でっちあげだろう」。神谷武宏園長によると、こうした匿名の電話や電子メールが一日に四〜五件ある。怒鳴りつけるような声が留守電に残されていることも。言葉遣いから、県外の人が多いとみている。
普天間第二小への窓落下など事故は絶えないが、中傷の電話・メールはやまない。神谷園長は「接収で土地を追われてやむなく住んだ人たちで出来上がった街。実情を知らないからでしょう。本土の人にも分かってほしい」と嘆く。
普天間飛行場と同様に、人口密集地にある米海軍厚木基地(神奈川県大和、綾瀬市)の第五次訴訟弁護団長の福田護弁護士は「『そこに暮らすのが悪い』といった非難はあまりに非常識。学校や病院、保育園の近くに基地があることの問題を、根本的に考える機会にするべきだろう」と話している。 (原昌志)

<米軍普天間飛行場周辺での事故・トラブル> 7日に緑ケ丘保育園屋根に、米軍ヘリコプターの部品が落下しているのを発見。13日には、市立普天間第二小学校運動場に、同飛行場所属のCH53E大型輸送ヘリコプターの窓が枠ごと落下した。当時、運動場では児童54人が体育の授業中だった。米海兵隊太平洋基地政務外交部長のクラーク大佐は18日、同校を訪れ謝罪。19日午後には同型機の飛行が再開された。