971年の沖縄毒ガス輸送 琉球政府の要請に、国の対応は… 外交文書公開 - 沖縄タイムズ(2017年12月21日)

http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/185428
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【東京】米軍知花弾薬庫(現・嘉手納弾薬庫)にあった毒ガス兵器の第二次移送(1971年7〜9月)を巡り、琉球政府屋良朝苗主席が住民不安の高まりを受けルート変更を日米両政府に要求したが、逆に住民の説得を求められるなど強硬的な対応を受けていたことが、20日に公開された外交文書で分かった。
公開されたのは、沖縄の本土復帰に向けた日米両政府と琉球政府による復帰準備委員会の第7〜9回(70年11月〜72年5月)に関する資料。
71年1月に開かれた第8回会議の自由討議で、屋良氏は第一次移送ルートからの変更を求めたが、米国民政府のランパート高等弁務官は「そもそもりゆう(琉)政はいかなる代替ルートを選定したのか。前回のルートはいかなる追加的対策を講じても村民を納得せしめられないのかをまずうかがいたい」と押し返した。
屋良氏は琉球政府が代替案を選定することで、「撤去の責任は元来米側にあるにもかかわらず、主席がなぜ責任をかぶるのか」と批判が出ることを懸念。「自分でイニシアチブをとることは難しい」と説明した。
移送コースはその後、変更されたものの、当時、屋良氏の発言を日本政府の高瀬侍郎大使は「な(泣)き言」と表現し、ランパート氏は「そんなことでは事は進まない」と突き放している。
こういったやりとりは、民意を聞き入れず名護市辺野古の新基地建設を強行する日米両政府の姿にも重なる。我部政明琉球大教授(国際政治学)は「輸送方法で屋良主席の訴える地域住民の要望を取り入れるにしても、日米両政府が最終的に決めることだと露骨に表現している。広く言えば、沖縄の主体性を認めようとしない姿勢といえよう」と指摘した。
70年11月の第7回会議では、自由討議の議題が事前に報じられたことに屋良氏は発言を求められ、「自分の周辺からは絶対にリークしていない」と弁明。高瀬氏は「一層の努力を」と注意するなど、屋良氏に対する警戒感もうかがえる。(東京報道部・大城大輔)