衆院選 政治の言葉 空疎さ嘆くだけでなく - 朝日新聞(2017年10月21日)

http://www.asahi.com/articles/DA3S13190004.html
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はっと立ち止まり、目を開かされる。心に響き、考えを深めるきっかけを与えられる――。
今回の衆院選で、言葉との、そんな幸せな出会いを経験した人はどれだけいるだろうか。
この国の政治の言葉は、総じてひどくやせ細ってしまった。
首相の「こんな人たち」、官房長官の「怪文書みたい」をはじめとする政権中枢の暴言、ごまかし、対話の拒絶は、深い不信を招いた。そして唐突に選挙になり、ワンフレーズのキャッチコピーが街にあふれる。
例えば自民党。「国難突破」をうたい、公約で「守り抜く」をくり返す。結党以来ほぼ政権の座にありながら、「国難」を招いた責任をどう考えるのか。だが幹事長は批判する聴衆を「黙っておれ」と一喝した。
議員らの離合集散の震源となった希望の党に目を向ければ、政治に、家計に、世界に「希望を」とたたみかけ、原発から花粉症まで「12のゼロ」を打ちあげる。しかし人々が記憶に刻んだのは、代表の「排除します」の一言ではなかったか。
わかりやすい表現に努め、耳目を集めること自体は否定されるべきではない。開かれた政治の実現に、一定の効果をもたらす面はあるだろう。
問題は、「耳目を集めること」が目的となり、そこで終わってしまっていることだ。
何かを「守り抜く」には、あるいは「ゼロ」にするには、往々にして代わりに何かを犠牲にしなければならない。
光と影。その全体像を誠実に語る言葉がないから、次に続くはずの対話もなり立たず、言葉全体が輝きを失う。
世の中を覆う空気も無縁ではない。短い文言でやり取りを済ませ、「いいね!」の数を競うのが、ネット社会のひとつの側面だ。細部を切り詰め、結論を急がせる。空疎な言葉と対話の欠如を、政治の責任だけに帰すわけにはいくまい。
投票日が目前に迫ったこの週末を、候補者や政党の言葉を、あらためて点検する機会にしてはどうだろう。
地に足のついた説得力をもっているか。訴える政策は歴史の評価に堪えるものか。人びとの心の奥にある不安や葛藤を想像する力をもち、まっすぐ向きあっているか。そして、それを自分自身の言葉で語ろうと、もがいているか。
もし疑問やしっくりこない感じを抱いたら、それを大切にしよう。なぜなのかを考え、ワンフレーズの向こうにある、その候補者の真の姿を、少しでも見きわめるようにしたい。