(筆洗) 疑惑の追及を封じ込めるかのように、衆院は唐突に、解散された- 東京新聞(2017年9月30日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2017093002000140.html
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政府を批判しただけで、厳しく弾圧されたソ連にあっても、憲法では表現や言論の自由は一応、認められていた。だから、米国では、こんな皮肉が語られた。「合衆国憲法ソ連憲法の違いは…ソ連憲法は言論、集会の自由を保障する。米国の憲法は、言論の後の自由も、集会の後の自由も保障する」
発言した「後」の自由が保障されていなくては、自由など空虚な看板。そして「後」と同じように保障されなくてはならぬのが、言論の「前」の自由だ。世界人権宣言は一九条で、こううたっている。
<すべて人は、意見及び表現の自由に対する権利を有する。この権利は、干渉を受けることなく自己の意見をもつ自由並びにあらゆる手段により…情報及び思想を求め、受け、及び伝える自由を含む>
真の言論の自由のためには、前提条件として、情報などを求め、受ける自由がなくてはならぬ。「知る権利」はそれほど重いものなのだが、この国ではどうだろう。
知る権利を害すると懸念された特定秘密保護法は、強行採決された。行政が歪(ゆが)められたのではないかと指摘される森友・加計問題では、真相究明になくてはならぬ公の記録は「ない」「廃棄された」と、官僚らが平然と言い放っていた。
疑惑の追及を封じ込めるかのように、衆院は唐突に、解散された。おととい二十八日は、「世界知る権利デー」だったのだが。