原発・千葉訴訟 論理が後退している - 東京新聞(2017年9月23日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2017092302000143.html
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津波を予見できた。それは千葉地裁も認めたが、事故を回避できなかった可能性がある−。福島第一原発事故の損害賠償を求めた判決は、三月の前橋地裁判決から論理が大きく後退した。残念だ。
不当判決」と原告側弁護士は法廷を出て述べた。それは判決の論理が、原告側が主張したものとは全く違っていたからだ。津波と事故の因果関係から、国や東京電力に法的責任があることを明確にすることだ。
三月の前橋判決では「地震津波は予見できた」と認めたし、「一年でできる電源車の高台配備やケーブルの敷設という暫定的対策さえ行わなかった」と東電の対応のずさんさを指摘していた。つまり、経済的合理性を安全性に優先させたという構図を描いていた。
ところが、千葉地裁の論理は異なる。例えば十メートルを超える津波が来ることは予見できたと認めても、当時は地震対策が優先課題だったとする。津波の長期評価には異論もあったから、対策を講ずる義務が一義的に導かれるとはいえない−。こんな論法を進めるのだ。
判決はさらにいう。仮に原告がいう対策をとったとしても原発事故に間に合わないか、結果的に全電源喪失を防げなかったかもしれない。いずれにせよ原発事故は回避できなかった可能性もある−。
裁判官がこんな論理を使って、全国各地の原発の再稼働を認めていったらたまらない。原発事故は一回起きてしまったら、もうそこには住めなくなる。放射能がまき散らされて、どんな被害が起きるのか、いまだに不明な状況なのだ。
十メートルを超える津波が来る。そんな予見ができたのなら、ただちにその対策をとる。全電源喪失に至らないよう、考えうる万全の備えをする。それが常識ではないか。千葉地裁の論法を使えば、津波が予想されても、別の優先課題があれば津波対策をしなくてもよくなってしまう。何とも不思議な判決である。
福島の原発近くに住んでいた人々は、まさか事故が起きるとは思わなかった。平穏な暮らしだった。原告が求めていた「ふるさと喪失」の慰謝料については、「事故と因果関係のある精神的損害として賠償の対象となる」(千葉地裁)と述べた。当然である。
原発事故の同様の訴訟は全国約三十件あるという。一件目が前橋、二件目が千葉だ。被害は広く、継続し、深刻である。不可逆的でもある。裁判官にはその重みを知ってほしい。