戦下の人々、生き抜く姿 「写真家 沢田教一展――その視線の先に」 - 朝日新聞(2017年8月15日)

http://www.asahi.com/articles/DA3S13088511.html
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「写真家 沢田教一展――その視線の先に」が16日、東京・日本橋高島屋で開幕する。ベトナム戦争などを写した作品約150点や遺品で、輝かしい業績とその生涯をたどる展示だ。故郷青森から世界へ旅だった青年が、戦場で見つめた悲しみと希望、そして願い続けた平和への思い。共に戦地取材を経験したカメラマンや妻の証言を交え、代表作や追い求めたモチーフを紹介する。
沢田にピュリツァー賞をもたらした「安全への逃避」。その画面には、戦争写真の「主役」である兵士や兵器、砲撃によって崩れ落ちた建物、そして血の一滴すらもない。が、この1枚が、ベトナム戦争の本質を世界に伝えた。米軍の爆撃から逃れ、必死の形相で増水した川を渡る2組の親子。軍服姿の沢田が向けるレンズにおびえた表情を浮かべる。
同時期にベトナムで活動したカメラマン石川文洋(ぶんよう)さん(79)は、この戦争を「米軍が農村を攻撃する戦争だった」と振り返る。米軍は南ベトナム解放民族戦線が潜むと見なした村々をしらみつぶしに攻めた。「農村には子だくさんの家庭が多かった。爆撃に巻き込まれ、子供たちが命を落とす。あるいは親を失って困窮する。多くの夢と将来が大人によって奪われました」。石川さんたち多くの報道記者が目の当たりにした、まさにこの戦争の縮図が、そこにあった。
沢田は当時、世界有数の通信社「UPI」に所属していた。石川さんらフリーのカメラマンに比べ、米軍から入ってくる情報量は桁違い。重要作戦にはことごとく沢田の顔があった。「物静かだが、果敢に激戦地に飛び込んでいく」と石川さんは印象を語る。同業者に「沢田に戦場で会うと安心する」と言わせるほど、戦況を読むのにもたけていた。「耳元に弾丸の熱と風を感じるような」(石川さん)現場で、活躍を続ける沢田を「死神に見放された男」と呼ぶ者すらいた。その後も、世界報道写真コンテスト大賞などの受賞作を連発する。
華々しい活躍の裏側で、沢田は戦争専門のカメラマンと思われるのを嫌がった。妻サタさん(92)には口癖のように「そこに生きる人々を、風土を撮りたいんだ」と繰り返した。沢田は9歳の時、青森で大空襲を経験している。初めてのカメラは、中学時代に新聞配達をして手に入れた。友達らを撮影、その写真を売って家計を支えた。豊かさとはほど遠い生活だった。本格的に撮影を始めたのは19歳ころ、サタさんと出会った写真店に勤めてから。寒風吹きすさぶ大地や山々、貧しい漁民、赤ん坊を抱く子供などを切り取った。
写真家としての原点を探すかのように、沢田は従軍の合間には街へも足を伸ばした。作品には、額に汗する労働者や子供たちの笑顔など、故郷の原風景を思わせる構図や被写体も多い。写真家人生の目標に定めていたのも、美しい写真で世界の風物を紹介する米国の写真誌「ナショナル・ジオグラフィック」への転籍だった。沢田がカンボジアの取材中に凶弾に倒れたのは、そんな夢をかなえかけていた矢先。34歳だった。

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さわだ・きょういち(1936〜70) 青森市生まれ。19歳で写真店に勤めたのを機に写真家・小島一郎に師事。米軍三沢基地の支店勤務時代に妻となるサタと出会う。61年に米UPI通信社東京支局にカメラマンとして就職し、65年にベトナムへ。70年10月、取材先のカンボジアで銃撃を受け死亡。主な受賞歴にピュリツァー賞、世界報道写真コンテスト2年連続大賞、ロバート・キャパ賞(没後受賞)など。

◆あすから東京・日本橋

◇16日[水]〜28日[月]、東京・日本橋高島屋8階ホール(03・3211・4111)。午前10時30分〜午後7時30分(最終日は午後6時まで。入場は閉場の30分前まで)。会期中無休
◇一般800円、大学・高校生600円、中学生以下無料
◇本展の公式書籍「戦場カメラマン 沢田教一の眼」(山川出版社、2700円)=写真=を会場でも販売

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主催   朝日新聞社
企画協力 沢田サタ
協力   山川出版社