「BC級戦犯 教誨師に届いた手紙」(時論公論 早川信夫 解説委員) - NHK(2017年8月15日)

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きょうは終戦の日先の大戦では、日本人300万人あまりが犠牲になり、海外で240万人が命を落としたとされています。そうした戦没者に思いをいたしながら過ごされた方も多かったと思います。先ごろ見つかったBC級戦犯遺族の手紙を手がかりに、改めて、戦争を記録することの意味を考えたいと思います。
今回の資料は、川崎市の明長寺というお寺で見つかったものです。おととしの春、本堂の収納庫を整理していたところ、箱に入れられた100通を超える手紙類が出てきました。一緒に出てきた新聞の日付などから、先々代に当たる当時の住職が保管していたものとわかりました。この中には、戦後、間もない頃にシンガポールチャンギ―刑務所で処刑された人たちの遺族からの手紙33通が含まれていました。文面などからBC級戦犯として死刑を言い渡された人たちをみとる「教誨師」をしていた当時の住職関口亮共さんが、託された遺書を帰国後に遺族の元に送り届け、その礼状として受け取ったものとわかりました。
亮共さんの孫にあたる伊藤京子さんは、檀家の一人で法学者の布川玲子山梨学院大学元教授のアドバイスを受けながら、資料を読むうちに戦争の不条理さ、残虐性を感じ、祖父から課題を突き付けられたと思うようになりました。
BC級戦犯とは何だったのでしょうか。
政府や軍の指導者が国家を戦争に向かわせた「平和に対する罪」に問われたA級戦犯に対し、BC級戦犯は、「人道に反する罪」つまり戦争中に捕虜や現地の人たちに対して虐待をしたなどとして罪に問われた旧日本軍の軍人・軍属のことをさします。連合国側の7か国によって戦地の49か所で裁判が行われ、合わせて5700人が被告として裁かれました。歴史的にはA級戦犯が裁かれた「東京裁判」に目が向きがちですが、BC級裁判は、戦後、外務省が「残虐行為をした者を政府が援助するのは不適当」だ、あくまでも個人の責任であって国としては関与しないという方針を示したこともあって、あまり関心が向けられてきませんでした。十分な通訳もつけられず、通常の裁判のような弁護を受けることもできなかったと言われていて、報復感情が先に立った裁判だったとも言われています。ただ、そのほとんどが、どう裁かれたのか、よくわかっていません。
関口亮共さんがしていた教誨師とはどのようなものだったのでしょうか。
もともとは、受刑者の精神的な救済を目的にボランティアで行うものですが、BC級裁判では、連合国側が捕虜となった旧日本軍の中からお坊さんの経験のある人を指名し、教誨師としたものです。シンガポールチャンギ―刑務所では、終戦の翌年から翌々年のわずか1年半の間に129人の死刑が執行され、亮共さんは2代目の教誨師として、このうち87人の死刑囚を見送りました。絞首台に送られるまでを共に過ごし、最期をみとったことは、僧侶とはいえ、30歳をわずかに超えたばかりの亮共さんにとって重いものがあったと感じられます。
なぜ、帰国した亮共さんのもとに遺族からの手紙が届けられたのでしょうか。
亮共さんは、死刑囚たちに肉親に宛てて遺書を書くことを勧めたと言います。連合国側の検閲で届かない可能性もあることから、すべての遺書を書き写し、帰国後に復員局を通じて、複写した遺書を届けていたのです。
手紙には、消息がわかったことへの感謝の気持ちやまだ信じられず、真偽を確かめたいという願いなどさまざまな記述が見られます。

▽死刑囚の妻からの手紙です。「世間の口には戸を立てられず。ああの、こうのと言ふ者もありましたが、詳しいお話をお聞きしましてから、家中のものは安心致しました。」
国から見放されるような非人道的なふるまいをした人の遺族として扱われ、肩身の狭い思いをしていたことがうかがえます。

▽父親からの手紙もありました。「今日貴殿の書面を拝見いたしまするに、(中略)合点の行かぬ点があります故、親の愚痴とは思いますが、倅の写真を同封致し置きます故、今一度相違なきかをご照合の上、ご面倒ながら御知らせ下さるやう伏してお願い申し上ます」。
自分の息子がまさか罪に問われるようなことをするはずがない、何かの間違いであってほしいという親の願いが感じられます。
最期を知りたい、あきらめようとしてもあきらめきれない思いがそれぞれに綴られています。
亮共さんの孫、伊藤京子さんは、資料を読み進めるうちに、事実の重みを伝えたいと思うようになりました。資料はお寺で大切に保管することにしています。伊藤さんは、初めてシンガポールを訪れ、犠牲者のお墓をお参りしました。

「資料を読んでいなければ、遠い出来事過ぎて、思いを馳せることは難しかったかもしれませんが、自然に手を合わせる気持ちになりました」と述べています。何も持たずにお墓に来たことを悔やみ、線香と花束を買い求め改めて訪れ、お経を唱えました。亮共さんが心にしまい込んでいた思いは、孫の伊藤さんにたしかに引き継がれました。
BC級戦犯の裁判について詳しい弁護士の間部俊明(まなべ・としあき)さんは「被告の遺族の手紙がまとまった形で出てきたのは大変興味深く、今後、裁判記録と照合するなどして、被告がどう裁かれたのか、検証するきっかけとなるのではないか」と話しています。
この指摘のように、資料を今後にどう生かすのかが課題です
一つは、国家的なプロジェクトとして、調査を。国は、戦場に駆り立てながら、BC級戦犯については関与せずの方針を示したことで、裁判記録の収集などこれまで本格的な調査をしてきませんでした。国が情報を明らかにしないのは、戦争当時も今も変わっていません。戦後72年、事実を知る人が極めて少なくなってきている今、法律や歴史学の専門家を交えて、改めて調査することが必要です。裁判記録を紐解くことによって、旧日本軍がアジア各地で何をしてきたのか、検証できる可能性があります。事実に基づかない歴史は誤解を招く要因ともなりかねません。
もう一つ、指摘しておきたいのは、戦争記録をデジタル化して半永久的に保存する取り組みの必要性です。今回の資料も、私が見せていただこうとするそばから紙がボロボロと端の方からはがれ始めてしまいました。劣化してしまう前に、デジタル媒体で記録しておく必要性を痛感しました。個人が所有している資料の発見が各地から報告されていますが、子や孫の世代が引き継いでいる今のうちに記録しておかないと、相続などで散逸してしまったり、いざ読もうとしたときに劣化して読めなくなったりするといったことがおきかねません。今年設立されたデジタルアーカイブ学会は、国が「戦史博物館」のようなものを作って、デジタル化した資料を一元的に管理し、後世の人たちが研究に使いたいと思うときに使えるような手立てを打つべきだと議論し始めています。
今回のことを、終戦の日近くの資料発掘の一つとして終わらせるのではなく、この国が戦争でしたことの検証作業のスタートとして、位置づけること。それが、異郷で亡くなった人たちの無念の思いに報いることではないかと思います。
(早川 信夫 解説委員)