「あなたのせいでうちの子は死んだ」今も頭を離れない 友の分まで非核叫ぶ 84歳の語り部 長崎原爆の日 - 西日本新聞(2017年8月10日)

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長崎は9日、72回目の原爆の日を迎えた。7月に採択された初の核兵器禁止条約は、前文に「ヒバクシャの受け入れ難い苦しみに留意する」と刻んだ。無残に死んでいった犠牲者。後遺症に今も苦しむ人。つらい体験にさいなまれ故郷を離れた人。一方で厳しさを増す国際情勢と、条約を否定する政府。それでも被爆者は、若者は、ナガサキに集い声を上げた。「あの日」ではなく「核のない日」を迎えるために。

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「あなたのせいでうちの子は死んだ」。石川県在住の被爆者、松林フミ子さん(84)=長崎市出身=は9日、平和祈念式典を終えると午後早く、故郷を離れた。戦後72年、石川に移り住んで60年以上がたった。それでも被爆して亡くなった友人の親から投げ掛けられたひと言は、今も頭を離れない。心の中で返す言葉は「一人だけ生き残ってごめん」。今年も友人の墓参りは、かなわなかった。

決して消えることのない被爆

1945年8月9日朝。女学校1年で12歳だった松林さんは、長崎市の丘の上にある寄宿舎で共同生活をしていた友人2人に「母が入院している病院に見舞いに行かん?」と誘った。食料不足でいつも空腹。見舞品の卵やカステラの一口でももらえないかと期待した。
午前11時2分。爆心地から南東3キロの勝山国民学校(現・長崎市立桜町小)の前を3人で歩いていると、目の前が突然ピカーッと光り失神した。気付いたときには周囲の建物は崩れ、がれきの山が見えた。あちこちで火災が起きていた。
友人の1人は即死だった。もう1人の「しいちゃん」に意識はあった。たどり着いた母親の入院先は崩壊していたが、母はたまたま自宅のある離島に戻っていて、被爆を免れていた。
戦後に帰った島で、急性原爆症とみられる発熱、下痢、脱毛に悩まされ、寝たきりの生活を3カ月間送った。再開した学校には一緒に生き残ったはずのしいちゃんの姿はなかった。被爆して1カ月後に亡くなったと先生から聞かされた。
墓参りがしたかったが、しいちゃんの親からは「外出に誘ったあなただけ元気で生きているなんて。顔も見たくない」と線香も上げさせてもらえなかった。自分を責め、間もなく逃れるようにして長崎を離れた。
姉を頼り、10代で石川に移り住んだ。ただ、待っていたのは被爆者への差別だった。周囲に反対された結婚を押しきり、長男を妊娠したときも義母から「被爆者からどんな子が生まれるか分からない」と中絶を勧められた。それでも子どもを産み、必死に育てた。
長崎を離れても、決して消えることのない被爆。その現実と向き合うため、8月9日には長崎を訪ねられるようになり、石川で語り部活動も始めた。
今年の平和祈念式典。平和憲法の改正を目指す安倍晋三首相と同じ会場に身を置き「あの時代に逆戻りしないかと不安で…」と漏らした。だからこそ、つらい体験も語ろうと決意している。「私は亡くなった友だちに生かされているから」。12歳で原爆の犠牲になった2人のため、核兵器のない世の中を願い続ける。