やまゆり1年 内なる差別を問い直す - 朝日新聞(2017年7月27日)


http://www.asahi.com/articles/DA3S13057574.html
https://megalodon.jp/2017-0727-0913-37/www.asahi.com/articles/DA3S13057574.html

相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」の事件から、きのうで1年が経った。
入所者19人が殺害され、職員3人を含む27人が負傷した。その被害の重大さだけではない。園の職員だった植松聖(さとし)被告(27)の「障害者は生きていてもしかたがない」という言葉が、社会に強い衝撃を与えた。
ある遺族は「あの子は家族のアイドルでした」と朝日新聞などの取材に語った。娘に抱っこをせがまれ、抱きしめてあげるのが喜びだった。被告は「障害者は周りを不幸にする」と供述したという。それがいかに間違った見方であるかを物語る。
苦労は絶えなかったかもしれない。それでも、一人ひとりが家族や周囲に幸せをもたらす、かけがえのない存在だった。
被告は「意思疎通ができない人を刺した」とも述べたとされる。意思疎通ができなかったのは被告の方ではなかったか。
目を向けなくてはならないのは、多くの遺族、被害者、家族が差別と偏見を恐れ、いまも名前を明らかにするのを拒み、発言を控えていることだ。
被告に共感を示し、障害者をおとしめる言辞をネットなどを使って発信する人々のふるまいが、大きな影を落としている。しかし、そうした一部の心ない人たちだけの問題だろうか。
先月、空港で車いすの男性が「歩けない人は飛行機に乗せられない」と航空会社から言われ、自らの腕の力でタラップを上ったことが報じられた。会社は謝罪したが、ネット上には事前に連絡しなかった男性を非難する声が数多くある。
昨春に障害者差別解消法が施行された。知的障害か身体障害かを問わず、日常生活の中の差別をなくし、「人格と個性を尊重し合いながら共生する社会」の実現をめざす。法の精神には大半の人が賛同するはずだ。だが、いざ障害のある人が、自分たちも健常者と対等な存在であることを主張すると、反発が固まりとなって返ってくる。
そこまでではなくても、混みあう通勤電車やエレベーターに車いすの人が乗ってきたとき、当たり前のこととしてすんなり受け入れられているだろうか。胸に手を当ててみたい。
「効率」に重きをおき、「共生」を後回しにする。そんな心理や社会のあり方は、「障害者は周りを不幸にする」という被告の発想と底流でつながっている。そう言えるのではないか。
亡くなった方々を弔うために一人ひとりができるのは、わが内なる差別を問い、ゆがみを少しでもただしていくことだ。