週のはじめに考える 病む心知る人ぞのみ - 東京新聞(2017年7月16日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2017071602000119.html
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政治も人も信じられない−。若い世代の嘆きの声が聞こえてきます。でもそんな今だからこそ紹介したい。東北の小さな町に、こんな、すごい人がいた。
柔道と相撲で鍛えた偉丈夫が、ひときわ大きく見えました。
一九七三年四月、宮城県唐桑町(現気仙沼市)の町長選挙。立会演説会場に充てられた中学校の講堂は、満員でした。
新人同士の一騎打ち。相手は前助役です。「会社顧問」の肩書で立候補したその人は、凜(りん)として背筋を伸ばし、朗々と訴えました。
「私は長年の間、みなさまの想像もできない病苦と戦い抜いて参りました。そうして社会復帰の先頭に立ちました。政治の根本的な考え方は、真ん中より下に視点を置くということであります。不幸せな人、病める人に視点を置いた政治、それが鈴木重雄の政治姿勢であります」(荒武賢一朗「東北からみえる近世・近現代」より)

◆病気も過去も超越し
南北戦争」といわれた激しい選挙戦。相手の地盤にもかかわらず、やじが飛ぶことはなく、涙を浮かべて聞き入る人もいた。
鈴木重雄。一九一二年の生まれ。ハンセン病回復者の完全社会復帰“第一号”−。
若き鈴木少年は、文武両道に秀でた“唐桑の星”でした。ところが東京商科大学(現一橋大学)在学中にハンセン病の宣告を受け、順風満帆の人生が暗転します。
ハンセン病患者は、離島の療養所に強制隔離され、ふるさとや社会との関係を一切遮断−。それがこの国の政策でした。
鈴木は「田中文雄」の変名で、岡山県瀬戸内市の国立長島愛生園へ収容され、新薬の効果で劇的に回復はしたものの、二十八年の長きにわたり、別人としての人生を強いられました。
それでも心は折れることなく、ふるさとへの思いは消せません。
愛生園の自治会長などとして、持ち前の人懐っこさを発揮しながら、当時の厚生省や救らい(ハンセン病の旧名)活動に熱心な政治家、文化人、芸能人や皇族にまで知己を得ます。
そして転機が訪れました。
唐桑町気仙沼市は、唐桑半島の陸中海岸国立公園への編入を国に陳情中でした。そのことを知るや鈴木は、培った人脈を動員し、「田中文雄」のままで舞台裏から実現に導くと、半島の先端に国民宿舎の誘致を提案し、これも成功させました。
端っこに宿舎ができれば、陸の孤島といわれた生まれ故郷の隅々にまで水道が行き渡り、女性たちをつらい水くみ労働から解放できるだろうとの深慮がありました。
こうした鈴木の実績に漁船漁業の船主たちがほれ込んで、選挙にかつぎ出したのです。
ふるさとに足を踏み入れることさえ許されなかったハンセン病回復者その人が過去を取り戻し、地元の有力者たちに請われて本名で町長選に名乗りを上げる−。

◆故郷への思い新たに
「奇跡を見た」。回復者との交流活動を通じて鈴木と出会い、奈良市から選挙の応援に駆けつけた矢部顕さん(70)は振り返る。
ハンセン病への理解を深めるための応援でした。ところが、周囲の忖度(そんたく)をはるかに超えた鈴木のふるさと愛と人間愛は、学生運動に身を置いた矢部さんにも驚きでした。「ニッポンの民主主義も悪くはない」と。
結果を見れば、敗北でした。百八十三票差。「あと一カ月、時間があれば」と悔しがる支持者に鈴木は莞爾(かんじ)と笑い、不自由な手で器用に汗をぬぐいつつ、「これでよし」とひと言つぶやきました。
選挙後鈴木は唐桑に定住し、社会福祉法人「洗心会」を創設、激しい反対運動にも遭いながら、知的障害者の通所更生施設「高松園」の開設にこぎ着けた。高台にある高松園は、東日本大震災の避難所としても機能した。“公約”は成し遂げられたのです。

◆誰が闇を照らすのか
時に冷たい選挙の風に病に傷んだわが身をさらし、鈴木は何を、伝え残したかったのでしょう。
「なにがどんなにつらかろうと、きっちりひきうけて、こちらから出かけて行かなきゃいけません。光ってものをさがすんじゃない、自分が光になろうとすることなんです。それが、闇の中に光を見出すということじゃないでしょうか」(藤本とし「地面の底がぬけたんです」)
鈴木と同じハンセン病患者が残した言葉。
「病む心知る人ぞのみ、天国行きの切符を買える」。そういえばこれが、鈴木重雄の口癖でした。
どんなに闇が深くても、人は自ら光になれる−。あなたが伝えたかったこと。
違ってますか。天国の鈴木さん。