加計文書問題 政権の勝手は許されぬ - 朝日新聞(2017年7月8日)

http://www.asahi.com/articles/DA3S13024742.html
https://megalodon.jp/2017-0708-0902-57/www.asahi.com/articles/DA3S13024742.html

公文書の扱いをめぐって、本来ゆくべき道の正反対をゆく、安倍政権の振る舞いである。
国家戦略特区を使った獣医学部の新設が加計学園に絞られた経緯について、内閣府は「内部の議論だったので記録はとっていない」と民進党に答えた。
信じられない話だ。口頭による報告と協議だけで、こんな重要な問題を決めたというのか。
そればかりではない。
文部科学省で見つかった「総理のご意向」文書などに対応する記録に関しても、内閣府は「存在しない」と言い続けている。「関係省庁や自治体との打ち合わせが極めて多く、多忙」と説明し、記録の欠如も当然といわんばかりの態度だ。
あれもない。これもない。本当にそうならば、明らかに法令の趣旨に反する。
国が持つ情報は、現在、そして未来の主権者のものだ。国民とその代表者はそこから経緯や教訓を知り、学び、めざす社会の姿を考える。公文書管理と情報公開が民主主義を支える車の両輪と言われるゆえんだ。
だから公文書管理法は「国の意思決定の過程を後からチェックできるようにしなければならない」と公務員に義務づけ、それを踏まえたガイドラインも制定されている。つくったのは他ならぬ内閣府である。
しかし現政権は、こうした道理をまったく理解しない。
官房長官は、文科省で見つかった文書を「個人メモ」と決めつけ、各府省の文書管理規則の見直しに言及。これを受ける形で、松野文科相は「個人メモが省内のフォルダーやメールで共有され流出した」などとして事務次官らを厳重注意した。
要は公文書の範囲を極力狭くとらえ、政権にとって不都合なものは職員個人の責任に押しつけ、存在しなかったことにしようという話ではないか。
メモが公文書にあたるか否かは、それが作られた背景や利用状況から判断されるべきだ。今回の文科省の文書は上司への報告に使われるなどしており、公文書とみなすのが当然だ。
このような政権の勝手を許せば、「きれいな記録」だけが残ることになり、公文書管理制度は骨抜きになってしまう。
識者でつくる内閣府の公文書管理委員会がきのう開かれた。以前から予定されていたものだが、PKO日報、森友学園加計学園と問題が続出したのを踏まえ、ガイドラインを明確・強化することが話し合われた。
一連の経緯からくむべき教訓は多い。それを正しく生かすことが、委員会の使命である。