憲法70年 公務員はだれのために - 朝日新聞(2017年6月25日)

http://www.asahi.com/articles/DA3S13003827.html
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公務員はだれのために働いているのか。そう嘆かざるをえないできごとが相次いでいる。
安倍首相の妻昭恵氏が名誉校長としてかかわった森友学園への国有地売却で、財務省が異例の対応をしていた実態を示す資料が次々と明らかになった。
首相の友人が理事長を務める加計学園獣医学部新設計画では、内閣府が「総理のご意向」だとして文部科学省に手続きを促していたとする内部文書が判明した。
公平、中立であるべき公務員の姿が大きく揺らいでいる。

■「全体の奉仕者」に
明治憲法下における「天皇の官吏」は、新憲法のもとで、主権者である国民のために働く公務員へと大きく転換した。
憲法15条が「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」と定めるのは、その宣言である。
戦後70年余、多くの官僚の働きが日本を支えてきたことは確かだ。だが、官僚機構が総体として「全体の奉仕者」の使命を果たしてきたかといえば、必ずしもそうとは言えない。
戦前の官僚主導の行政機構は戦後も温存された。占領当局が日本統治にあたり、国内事情を熟知する官僚に依存したこと、多くの政治家が公職追放を受けたことなどが背景にある。
官僚が族議員の力を借り、省益や業界益の実現を図る。そんな政官のもちつもたれつの関係が成立した時代もあった。
しかし政官の癒着やタテ割り行政のひずみが広がり、経済成長の鈍化も加わって、政治主導によるトップダウンの政策決定がめざされるようになった。安倍政権が2014年に内閣人事局を設置したのも、1980年代末からの一連の政治改革の延長線上にある。

内閣人事局の副作用
内閣人事局の設置で、中央官庁で働く約4万人の国家公務員のうち、事務次官や局長ら約600人の人事に首相や官房長官が直接かかわるようになった。
それにより首相官邸が官僚機構の人事権を掌握したが、現状は副作用も大きい。
多くの官僚が、官邸の不興を買うことを恐れ萎縮している。「官邸の意向」を過度に忖度(そんたく)し、「時の権力への奉仕者」と化してしまってはいないか。
自治省課長で総務相もつとめた片山善博・早稲田大教授は「今の霞が関は『物言えば唇寒し』の状況。内閣人事局発足以降、この風潮が強まっている」と朝日新聞に語っている。
もちろんすべての官僚をひとくくりにはできない。加計問題で、「怪文書」と断じた政権に追従せず、「総理のご意向」文書の存在を証言した文科省職員らを忘れるわけにはいかない。
とはいえ、衆参で与党が圧倒的多数の議席を占める「安倍1強」のもとで、国会による政権の監視が弱まり、立法府と行政府の均衡と抑制が機能不全に陥っている。そのうえに官僚が中立性を失い、政権と官僚の相互チェックが損なわれていることの弊害は極めて大きい。
では政と官のあるべき関係とはどういうものか。
政策決定に当たっては、選挙で国民に選ばれた政治家が方向性を示す。官僚は具体化するための選択肢を示し、政治家が最終判断する。それが望ましい政官関係のあり方だろう。
同時に、官僚は政治家にただ従えばいいわけではない。政治家の過ちには異議を唱え、説得に努めることも欠かせない。
「変化」に敏感で、状況に応じて方向を決める政治家。「継続」を重んじ、中立性を旨に行政を安定させる官僚――。両者の役割分担によって適切な緊張関係が生まれれば、惰性を排することにも、過度な振幅を抑えることにもつながる。

■「政と官」再構想を
日本と同じ議院内閣制で、一連の政治改革のモデルとされた英国の事情はどうだろう。
「英国では政策決定はトップダウンの政治主導だが、人事は必ずしも政治主導ではない」
内山融・東大教授(政治学)はこう解説する。
「省庁の次官や局長級人事については、政治の干渉を受けない国家公務員人事委員会が選考委員会をつくって候補者1人を首相に推薦する。首相はその人事を拒否できるが、その場合はもう一度、委員会で選考し直すことになる。そうすることで中立性が保たれる仕組みだ」
日本の官僚機構に中立性を育むために何が必要か。
まず政権が人事権を乱用し、官僚に過度の圧力をかけるようなことはあってはならない。
そして、官僚は「全体の奉仕者」としての仕事ぶりを主権者である国民に十分に開示し、チェックを受ける必要がある。
そのためにも、政策形成にかかわる公文書をより厳格に管理し、積極的に情報公開することから始めなければならない。
そのうえで人事制度の見直しを含め、政と官のあるべき関係を構想し直す時ではないか。