<水俣病慰霊式>「前向きに生きて恩返し」胎児性患者の男性 - 毎日新聞(2017年5月1日)

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170501-00000081-mai-soci
http://archive.is/2017.05.02-000307/https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170501-00000081-mai-soci

「私たちが精いっぱい生きることが、未来に向かって生きている誰かの心の支えになれば」。熊本県水俣市で1日に営まれた水俣病犠牲者慰霊式で祈りの言葉を述べた胎児性患者、滝下昌文さん(60)=同市=は追悼とともに生への決意を語った。今年2月に胎児性患者らが主催した演歌歌手、石川さゆりさんのコンサートの実行委員長。前向きに人生を歩むことが、コンサートを支援してくれた市民への恩返しとの思いを込めた。
水俣病が公式確認された1956年5月1日の約2カ月後、患者多発地区で漁師・舟大工の家に生まれた。歩行が不安定などの症状があり、物心ついた時には病院で暮らしていた。今でも「健康というものを自分は知らない」と話す。病院から通った小学校時代、同級生に病気のことをからかわれたこともあった。
他の胎児性・小児性患者と同じく職に就けずにいた20代。「自立した大人として認められることをしたい」。仲間の患者らと企画したのが熊本県出身で同年代の石川さゆりさんの歌謡ショーだった。78年9月に実現し会場の水俣市文化会館は満席になった。
自信を得て市内のキャンプ施設などで勤務するようになり93年、37歳で見合い結婚し、長男を授かった。だが、年齢を重ねるごとに症状は悪化し、車椅子に頼る生活となっていった。
還暦間近の2014年秋。「もう一度、石川さゆりさんのコンサートをやってみないか」。患者仲間に声をかけ、動き始めた。22歳になった長男に立派な父親の姿を見せたいという思いもあった。宣伝や資金集めに奔走したが、体は悲鳴を上げた。昼夜2公演で入場客1800人を集める目標だったが「やっぱり無理では」と一時は弱気になった。しかし、賛同したボランティアスタッフも増え、乗り越えた。2月11日、かつてのように文化会館は再び満席となった。
コンサートでは「私たちは大きな不安を抱えて生きています。それでも石川さんの歌、力を貸してくれる皆さんの思いが、私たちのこれからを生きる力になります」とあいさつした。石川さんは公演後、自身のオフィシャルウェブサイトに「嬉(うれ)しさと、決して忘れてはいけない日本の出来事を思う今日でした」と書き込み、自筆の手紙も贈ってくれた。
かつては差別も受けたが今、市民は自分たちの挑戦を支えてくれる。祈りの言葉では「(コンサートでは)市民の皆さんの熱い思いを感じ取ることができました。思いを寄せてくれるすべての皆さまにお礼を申し上げます」と、感謝の言葉を繰り返した。【笠井光俊】

(石川さゆりオフィシャルウェブサイト)
風化させてはいけないこと - さゆり日記(2017年2月12日)
http://www.ishikawasayuri.com/diary/2017/02/post_321.html

熊本市内から1時間40分ほどで水俣に着きました。

胎児性水俣病の皆さんと初めてお会いした39年前の街は、私の思い出の中では、もう少し暗い色をしいていたように思います。
「若い患者の会」の皆さんも一生懸命に模索しながら、石川さゆりのコンサートを自分たちの力で実現させようと、ポスターを貼ったり宣伝をして私を呼んで下さいました。
月日というのは穏やかに、優しく時に残酷に流れるのだなと思います。

39年の間にも何度か皆さんとはお会いしていましたが、今回は還暦を迎えた皆さんが、青春のあの熱い日をもう一度思い返し、これから過ごす日への糧に石川さゆりの歌を聞きたいと言って下さいました。
皆さんの会も「若かった患者の会」に変わりました。

会場いっぱいのお客様を前に、代表が「大勢のみなさんの、お力をいただき、開催することができました」と一生懸命に挨拶をなさいました。
月日が経ったんだなと思いました。おこがましく失礼に聞こえたらいけませんが、あの若かった時は必死に自分の自立をおっしゃっていたのが、皆さんへの感謝の言葉に変わっていました。還暦を迎えた皆さんが、とても堂々として立派に見えました。

今回の一日限りのプログラムを組み、音楽仲間とはお客様の開場ギリギリまでリハーサルをし、ステージをお届けしました。私の音楽仲間にも感謝します。

とても嬉しいステージになりました。歌の一曲ずつに大きな拍手を頂き、「若かった患者の会」の皆さんもお顔をくしゃくしゃにして、動きにくい手を「恋しゅうて」では一生懸命に動かし楽しんで下さいました。