週のはじめに考える 杉山さんが生きている - 東京新聞(2017年4月30日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2017043002000136.html
http://megalodon.jp/2017-0430-1017-06/www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2017043002000136.html

「空襲被害者」援護の法制化に向け、法案の素案が決まるなど政治の動きが急です。見えない力でその背中を押しているのは…。やはりあなたですか。
名古屋市東部、住宅地の真ん中に広がる千種(ちくさ)公園(約六ヘクタール)の辺りはかつて、旧名古屋陸軍造兵廠(しょう)の工場跡地でした。先の大戦中、軍需産業の一大拠点だった名古屋市は、米軍のひときわ激しい空襲を受けて街は壊滅、約八千人が死亡、一万人超が負傷しました。

◆名古屋から始まった
公園の片隅には、空襲の爆撃によって、拳大の穴が幾つも開いた造兵廠外塀の一部が古びたまま移設されています。同じ一角で、輝きを放っていたのは真新しい白板の石碑(高さ約二メートル)でした。
二〇一四年、名古屋市が建てた「民間戦災傷害者の碑」です。
碑文の一節にはこうあります。

<(空襲で)死傷した民間人も国が援護すべきという運動は、昭和四十七年、全国戦災傷害者連絡会(全傷連)により、ここ名古屋から始まった。一方、名古屋市は平成二十二年に「民間戦災傷害者援護見舞金」制度を設け、独自の援護を開始した。>
二年半前の除幕式には、あの杉山千佐子さんの姿もありました。名古屋空襲で左目を失うなどの障害が残る身で、長く全傷連会長として運動を率いた人です。昨年九月、百一歳で亡くなりました。
同じ戦災でも「国との雇用関係があった」旧軍人や軍属、その遺族には恩給や年金が支給されるのに、空襲などでの民間戦傷者に国の補償がないのはおかしい−。杉山さんたちの国に援護法制定を求める運動は、司法や政治の冷徹な壁に幾度となく阻まれ、長く膠着(こうちゃく)してきました。杉山さんはそれでも、全国の集会を車いすで巡っては声をあげ続け、最後まで反戦の執念に貫かれた生涯でした。

◆国に先駆け公に認定
その死去からまだ半年余の短い間に、三十年近く途絶えていた政治の動きが、にわかに勢いづきました。援護法を目指す超党派の国会議員連盟(空襲議連)が、法案の今国会提出へ準備を加速させていることです。先週の議連総会では法案の素案も決定しました。
この急展開。まるで杉山さんが現世に残した執念の力に、突き動かされているようでもあります。何より杉山さんの百歳を超えての死去が、被害者の高齢化を受けて「急がねば」と議員たちの危機感に火を付けました。
そして、これも杉山さんとの因縁か。議連が法案作りの手本にと着目したのが名古屋市の制度だったということです。公園の碑文にもあった援護見舞金です。
全傷連の地元でこそ芽生えたこの制度の眼目は、援護すべき「民間戦災傷害者」の存在を国に先駆け、公に認定したことでしょう。見舞金は年二万六千円でも、杉山さんは「金額の問題ではなく、認められたことが本当にうれしい」と感極まった様子でした。
でも、それはまだ入り口でしかなかったはずです。杉山さんたちにとっての出口、つまり最終的に認定を引き出すべき相手は、あくまで戦争を引き起こした張本人の「国」だったからです。
こんな一幕がありました。
二〇一〇年の秋、杉山さんが見舞金の受給資格の認定書を市長から受けた時のやりとりです。
国会議員時代から全傷連の運動に共感し、活動してきた河村たかし市長が「本当は総理になって全国でやれるとよかったのだけど」と話すと、九十五歳の杉山さんは「最近は(右)目がほとんど見えなくなり転んでばかりいますが、援護法の制定に向け、あと五年は頑張りたい」と。やはり国を動かすまでは死にきれない。その一念だったのでしょう。
この二月、空襲議連は名古屋市の担当者を招き、見舞金制度について説明を聞きました。それらを踏まえて結局、議連が今回決めた素案の骨格も、見舞金と同様、援護の対象を「障害などが残る人」に絞り込む“名古屋方式”で決着したのです。杉山さんたちが切り開いた見舞金の入り口から、国の援護法という出口へ。長いトンネルの先にやっと貫通の明かりが見えてきたということでしょう。

◆勢いが今あるうちに
あとは各党内の調整を経て法案提出への流れですが、ここで国会運営などの駆け引きに紛れ、法案の扱いが後回しにされるようなことは、もはや許されません。あまり時間がない高齢の被害者たちにとって、今回の動きは悲願達成への「最後の機会」です。
杉山さんたちに後押しされた勢いが今あるうちに、今国会で成立させなければ、政治が超党派で取り組んだ意味さえなくなります。杉山さんの反戦にかけた生涯を、歴史に生かすためにも、そうしなければならないのです。