暮らし<いのちの響き>足で絵を描く(上) 心打つ作品 言葉代わり - 東京新聞(2017年3月1日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/living/life/201703/CK2017030102000192.html
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石川県小松市の民家の一部を開放した画廊「しゅう」。玄関の扉は、冬でも昼間は開けっ放し。一歩中に入ると、燃えるような赤富士の絵が出迎える。七メートル続く廊下にも、多くの風景画が並ぶ。
とけ始めた雪だるまを描いた絵は、特に印象的な作品だ。日光を受けて輝きながら降る雪には、金色の絵の具が使われ、美しい自然への畏敬の念を筆で表している。
絵はすべて、この家に住む中出(なかで)修一さん(57)が右足だけで描いた。生後すぐに高熱に襲われて脳性まひとなり、ほぼ全身が動かない。
住宅街にある画廊には二〇一一年十二月の開設以来、県内外から月に二十人ほどが訪れる。
「足で描いたの。すごいねえ」と涙ぐむ高齢女性や、「絵にうそがなくて、心と一つになっとる」と感心する中年男性。小学生の孫とともに来て、「勉強ばかりじゃなくて、自分の思ったことをやればいいんやぞ」と諭すお年寄りもいる。
言葉を話せない修一さんはそんな時、座椅子に座ったまま、唯一自在に動かせる右足先をピンと上に立て、歓迎の気持ちを表す。父の繁男さん(81)も感無量の面持ちで話す。「こんなにたくさんの人が見に来てくれるとは」
修一さんは一九五九年、福井県大野市で生まれた。原因不明の高熱に襲われたのは生後二日目。体温は四〇度を超え、声をほとんど上げずに、母乳を吸う力もなかった。四日後に熱は下がったものの、激しいけいれんをたびたび起こした。一歳半の時に脳性まひと診断された。
当時は、障害のある人に対する社会の偏見は激しく、障害児は家から出さないようにして育てられることが多かった。母の嘉寿子さん(79)は、わが子が病気がちの原因が分かってほっとした半面、行く末を案じて涙を流した。繁男さんはなぜか、「神様仏様からこの子を授かった」との思いが湧き上がった。
「修一が社会に受け入れられるには、まず学校で教育を受けさせたい」。六歳になった時、教育委員会や小学校などに掛け合ったが、「無理です」の一点張り。就学猶予(免除)の手続きを勧められた。障害児は義務教育を受けられないことが当たり前とみなされていた。
体の不自由な子どもが暮らしながら、専門の療育を受けられる入所施設「第二石川整肢学園」が、小松市にできると耳にしたのはそのころ。小学校の分校も併設されるという。
「自宅から遠い施設に息子を預けるのはつらい」と迷ったが、小児科医に「お父さんは子どもより先に死ぬんだよ。子どもの成長を考えて」と言われ、決意した。分校は教員らの配置が間に合わなかったため、修一さんは一年間、聴講生という形で入学した。
施設の看護師は修一さんを抱っこして「えーっ、こんなに障害が重い子が入るの」と驚いた。車いすもなく、職員が抱っこして移動させ、看護師がとろみのついた食事をスプーンで与えた。体の力がうまく制御できないため、唇や口の中をかんでしまい、血だらけになった。
念願の学校生活だったが、授業どころではなかった。しかし、分校の教師、尾坂正康さん(74)=同市=との出会いが生活を変えた。 (白井春菜)