天皇制と憲法 象徴の意味を考えて - 東京新聞(2017年2月11日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2017021102000187.html
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天皇の退位をめぐり政府の有識者会議が議論を進めてきた。一代限りの退位容認論が優位と伝えられる。天皇制と憲法の在り方を一から考えると−。
「脱出の自由はあるか」−。憲法学者の故奥平康弘氏は、そんな切り口から憲法天皇条項を考えた人である。人間が不自由を強いられている場合、自由を回復できたらいいが、次善の策として、不自由な状況から抜け出す自由はあるのかと−。
そのとき、特権と不自由を天秤(てんびん)にかけて、天皇という特権を得ているのだから、不自由はがまんせよ−という論法を使ってはならない。そう奥平氏は指摘した。

◆お言葉に誠実に回答を
退位のテーマは、この設問とどこか重なり合っているように思われる。確かに高齢を理由にした退位をがまんせよという論法は使えまい。天皇の意思表明に対しては、政治の側も国民の側も、誠実に回答すべきである。
自らビデオメッセージという異例の形で退位に言及されたのは、昨年八月八日のことだ。お言葉の中には重要なキーワードがいくつも登場する。
日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を日々模索しつつ過ごして来ました」「国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます」。そんなお言葉もあった。
「象徴」の言葉が何度も繰り返されていた。では「象徴としての行為」とは何であろうか。憲法天皇の行為をこう定めている。
天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない>
つまり憲法の条文には国事行為のみが書かれていて、象徴としての行為の定めがない。国事行為とは首相や最高裁長官の任命などだ。法律や条約などの公布。国会召集…。儀式もある。

◆公的行為にこそ意味が
この一点をもって、天皇は国事行為さえすればいいという極論が発生する。だが、国事行為と象徴としての行為、そして私事の三つによって現在の天皇制は成り立っていると考える。
明治憲法では憲法より以前にあらゆる統治権を握った天皇が存在した。「天皇神聖にして侵すべからず」と憲法条文にも書かれた。神の後継者でもあった。同時に憲法によって自己制限される仕組みだった。
日本国憲法においては、天皇の存在は憲法下にある。「日本国民の総意に基く」という憲法一条の定めは、天皇の地位の規定である。一九四六年の「人間宣言」によって、昭和天皇自ら現人神(あらひとがみ)であることも否定している。
それでは、国事行為以外の時間に天皇は何をしても自由であろうか。かつて、ある高名な憲法学者は一つの考え方を出した。天皇は国の一機関だから、国事行為以外の時間において、私人としては自由である。そんな解釈である。
だが、どこかおかしい。その解釈に立てば、天皇は私人としては例えば信教の自由を持つなど、一般人と近い自由が持てる。
だから、別の学者は天皇には国家の機関である以前に、まず象徴という地位があると考えた。日本国や国民の象徴という地位である。つまり、戦前は現人神、戦後は象徴という地位である。
「象徴としての行為」とは、それを具現化するためのいとなみであるといえよう。だから憲法に規定はないが、国事行為とも私事とも異なる重要な公的行為となる。
国民に寄り添い、苦楽をともにする。各地の被災地を見舞い、アジアの各国を慰霊のために旅をする。それら公的行為にこそ、天皇の象徴たりうる意味がある。
この公的行為が象徴性を支えていると考えるのが自然であろう。逆に言えば、どこにも天皇の姿が現れなくなり、国民の視界から天皇は消えれば、国民は象徴として考えにくくなりはしないか。
高齢のために象徴としての行為が十分にできなくなる−。そのため退位を望まれた天皇のお気持ちは十分に理解できる。人間誰もが高齢になれば活動量も落ちる。そのように考えると、一代限りの退位でよいのか疑問が湧く。

◆一世一元は明治から
一世一元の体制は明治からで、それ以前は退位はしばしばあった。現在も西欧などの王室では高齢による退位はいくつもある。共同通信が一月下旬に行った世論調査では、政府が検討する一代限定の特別法への支持が26・9%で、恒久制度化する皇室典範改正への支持が63・3%を占めた。
世論調査はむろん一指標だとしても、また時間の制約はあるにせよ、この議論に「国民の総意」という憲法要素は不可欠である。