「手話の場を守りたい」 金町学園・浜崎園長に聞く - 東京新聞(2016年12月31日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201612/CK2016123102000104.html
http://megalodon.jp/2016-1231-1114-19/www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201612/CK2016123102000104.html

耳の聞こえない子どもたちにとって、生活の場を提供してきた「金町学園」(東京都葛飾区)が早ければ来年度いっぱいで閉鎖されることになり、新しい施設造りに立ち上がった浜崎久美子園長(72)。守りたいのは「子どもたちが、手話で自由におしゃべりできる場所」。なぜ、手話が大切なのか。思いを聞いた。 (石原真樹)
聴覚障害者の母語は手話。それに囲まれて育つことは最低限の権利」。長年の体験を振り返りながら、浜崎さんは力説した。
神奈川県内の小学校で勤務した後、一九六七年、都立杉並ろう学校(閉校)に着任した。教員たちが相手の唇の動きで言葉を読み取る「口話」で授業をしていたことに疑問を抱いた。「ちゃんと通じていないのではないか」
当時のろう学校は多くが口話で授業をしていた。耳の聞こえない人を聞こえる人に合わせることが教育の目標とされ、手話は「手まね」と低くみられていた。
それでも、子どもたちと心を通わせるため手話を自主的に学び、授業で使った。江東ろう学校(閉校)の校長となったときは、着任早々の運動会で手話によるあいさつをした。それまでの校長は、口話であいさつをしていた。前例を打ち破ったあいさつは、教員たちを驚かせた。
金町学園の園長になったのは二〇〇五年。当時の職員は手話が得意でなく、子どもたちとのコミュニケーションが不足していた。手話を施設の公用語にして、職員は全員、手話ができるようにした。子どもたちの目標となる聴覚障害者も採用した。
「基本である言語が育たなければ、学力も育たない。子どもたちに情報を入れれば能力を引き出せる。手話はその手段となる」
両親が耳の聞こえる家庭で育った子どもが、会話を聞き取ろうと必死になって疲れてしまったり、コミュニケーションがうまくいかないために自信をなくすケースも見てきた。「手話は、時に愛情よりも大事な場合がある」とも言う。
今年の春から学園で暮らす中学一年の高崎佳菜子さん(12)は「家にいたときよりも、いっぱいしゃべるようになった」と手話で楽しそうに話した。
浜崎さんは言う。「健聴者の社会は、障害児には戦いの場でもある。ここは、そこから戻ってきて癒やされる『ホーム』のような場所。守っていかなければいけない」

◆共同生活しつつ通学
金町学園は1933年、現在の墨田区にできた「東京ろうあ技芸学園」が起源。聴覚障害の貧困児童の職業教育を使命とした。48年、児童福祉法に基づく施設となり、戦争孤児らを受け入れた。56年、葛飾区に移転し金町学園と改称。現在地へは64年に移った。
定員は30人。入所者は共同生活を送りながら、中央(杉並区)、葛飾葛飾区)、大塚(豊島区)の都立ろう学校に通っている。
入所者の受け入れ先が決まらないと、都から金町学園の閉鎖は認められない。浜崎さんは自分たちが造ろうとする施設への受け入れを目指している。
一方、運営する東京愛育苑は他の障害児施設などに移すことを検討。法制度が変わり、異なる障害のある子たちが同じ施設で生活できるようになったためだ。