年のおわりに考える 理想の旗を高く掲げて - 東京新聞(2016年12月30日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2016123002000159.html
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憲法改正が来年の大テーマとなるでしょう。緊急事態条項の創設などが現実になれば、九条も狙われます。平和主義の大切さを考えねばなりません。
法と現実の関係を考えてみましょう。例えば憲法には男女平等が書かれています。理想です。一四条で「法の下の平等」が定められ、性別で差別されないことを保障しています。二四条でも「両性の本質的平等」という言葉が登場します。でも、現実の社会ではいまだ男女不平等が残っています。そんな現実があれば、憲法の描く理想に近づかねばなりません。
理想と現実−。両者の間には常に隔たりがありますが、現実を理想の方向に導くのが正義の姿であるといえます。
ところが、九条の話になると、その関係が怪しくなります。改憲論者は世界で戦争の歴史が続いているから、その現実に合わせて日本も正規の軍隊を持たねばならないと考えるのです。
実際に自民党憲法改正草案は、国防軍の創設をうたい、戦争放棄の条文から「永久にこれを放棄する」という大事な言葉を削除してしまいました。
九条一項の戦争放棄は「戦争の違法化」と説明されます。侵略戦争などの否定です。一九二八年にパリで締結された「不戦条約」も戦争を放棄し、紛争は平和的手段によって解決することを規定しました。日本も批准したものの、わずか三年後に満州事変を起こしました。
その結果、国際連盟を脱退せざるを得なくなり、日中戦争へ、太平洋戦争へと突入していったのです。「戦争の違法化」の理想は、もちろん四五年に制定された国連憲章でも生きています。

◆九条改正は限界を超す
日本国憲法の先進性はむしろ九条二項に表れています。戦力の不保持と交戦権の否認の条項です。これこそ中核です。戦力がなければ、戦争などできはしないのですから…。十八世紀の政治哲学者カントが「永遠平和のために」で唱えた「常備軍の全廃」の精神が具現化されています。
これについても、改憲論者は自衛隊の存在を盾にとって、理想をなげうち、現実の方向へと導こうとします。この点については憲法前文が揶揄(やゆ)されるケースが目立ちます。例えばこんな部分です。

<日本国民は(中略)平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した>
現実離れしていると言うわけです。確かに世界で紛争がありますが、平和を愛さない人はいません。まさに理想の旗を高く掲げた日本国憲法の不朽の先進性を示すくだりだと考えます。
九条がなければ、かつてのベトナム戦争で韓国の若者が五千もの命を失ったように、日本の若者も多くの血を流していたでしょう。軍拡の道を歩んでいたでしょう。
逆に言えば、もし九条が改正されてしまったらどうなるか−。実は日本国憲法は「平和主義」を根本原理として書かれているので、かなり重要な条文をいくつも変えざるを得ないのです。
首相や内閣の権能などは書き換えねばならないでしょう。軍隊を持てば、軍法会議の規定も必要になってきます。それどころか、前文の平和的生存権表現の自由、集会・結社の自由などは「公益及び公の秩序」の名の下で制約を受ける可能性が濃厚です。
九条を変えれば、それぞれの条文がきしむ音を立て、似て非なる憲法になってしまうことでしょう。この事態は憲法改正の限界点を超えると考えるべきなのです。
自民党草案では国を守ることを国民に課す内容も含まれています。「国防義務」そのものです。平和と安全は守らねばなりませんが、権力がそれを口実にしてさらなる強権を得ようとするのは歴史が示しています。
ナチス・ドイツでは緊急事態宣言と全権委任法でヒトラーの独裁を築きました。憲法に拘束されない無制限の立法権を政府に与える法律です。正式名称は「民族および国家の危難を除去するための法律」です。国家の危機と言われれば皆、反対しにくいものです。権力はそのような手口を使います。

◆国際社会からの信頼は
国家の危機を口実に再び「軍」を持てば、周辺国はさらに危機感を高め、軍備を増強するに違いありません。九条というブレーキ装置を壊したら、かえって危険度は高まりはしないか。
国際社会で戦後日本が信頼されてきたのは平和主義があったためです。理想の旗はもっと高く、永久に掲げ続けたいものです。