戦後友好の旗、平和願うサイン 女川でカナダと戦った祖父の遺志 - 東京新聞(2016年12月3日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201612/CK2016120302000245.html
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第二次世界大戦中、連合国軍の一員として参戦したカナダ軍と宮城県女川町沖で戦った日本人男性が、平和への思いを込めたカナダ国旗を残していた。白地に赤くカエデの葉を染め両国の友好を願う人のサインで埋め尽くされた旗は、町を襲った東日本大震災津波にも耐え、友好の懸け橋として今も生き続けている。 (渥美龍太)
震災の津波で女川町の実家の両親は行方不明、アルバムや手紙も押し流された会社員、神田義健さん(40)=現在は都内在住=は途方に暮れながら何度も帰郷し、両親の手がかりを捜していた。
二〇一一年六月四日、見る影もない実家のがれきの山からポリ袋に丁寧に包まれたカナダ国旗を親族と掘り出した。神田さんは「何もかもが流されたのに、なぜ旗だけが」と驚いた、と言う。祖父の義男さん(故人)にとってこれが大事な存在と知っていた。
一九四五年八月九日、カナダ軍の戦闘機が日本軍の攻撃で女川湾に撃墜された。戦死したパイロットのロバート・ハンプトン・グレー大尉はカナダの英雄だ。後にカナダ側からの申し出を受け、町内に大尉の慰霊碑を建てる際に尽力した一人が、自らも戦闘に参加し、地元の旧日本軍の軍人でつくる組織の幹部だった義男さんだった。
このときの戦いで日本兵百五十八人が亡くなっている。義男さんは建立に反発する遺族らに「戦争を憎む気持ちはみな同じ」などと説得。八九年に碑の除幕式にこぎ着けた際、義男さんは出席したグレー大尉の姉たちのサインをカナダ国旗に書いてもらった。その後も駐日のカナダ大使館員ら、交流を担う人のサインを増やしていった。
神田さん自身もグレー大尉の遺族の結婚式に参加するなど交流。〇三年にはカナダ・バンクーバーであった大尉の姉の孫娘の結婚式に出席した。花嫁の母親の涙ながらのスピーチを覚えている。「戦争という悲しい出来事があったが、義男の協力で慰霊碑が建った」
旗には大尉の遺族のサインがそろった。両家族の絆が深まったのを見届け、義男さんは〇五年に亡くなった。その年、書くスペースがなくなり、もうひとつ旗を買った。

神田さんは今も、津波に耐えた二枚の旗を見つけたときの不思議な感覚が忘れられない。ちょうどこの日、カナダの駐在武官トップが女川町に復興支援目的で訪れており、流されたと思っていた旗との偶然の対面も果たした。
八日で太平洋戦争が開戦してから七十五年。「祖父の思いが旗を残してくれた」と信じている。これからもサインを集め続け、子どもたちの世代にも、祖父が願った日本とカナダの友好の遺志を引き継ぎたいと思っている。

<カナダと第2次世界大戦> 英国の旧植民地などでつくる英連邦の一員として連合国側に参戦し、欧州戦線に派兵した。真珠湾攻撃を機に日本に対しても1941年、宣戦を布告。カナダ国内の日系人を強制収容した。連合国軍としてカナダ軍は女川湾に配置されていた艦艇などの防備隊を攻撃。この際撃墜されたグレー大尉が最後のカナダ人戦死者とされる。