(核リポート)脱原発訴訟の先頭に立つ、元裁判長の決意(聞き手・小森敦司) - 朝日新聞(2016年11月21日)

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東京電力福島第一原発の事故後、若狭湾原発の運転差し止めを求める住民らの訴えを司法は二度認めた。住民側弁護団の先頭に立つのは、裁判官出身の弁護士、井戸謙一さん。裁判長時代、巨大地震による事故のリスクを指摘し、営業運転中の原発差し止めを初めて導いたその人だ。原発の是非をめぐり、司法判断の流れは変わりつつあるのか。3・11のショックで立ち上がったという弁護士は、かぎを握るのは「世論」と語る。
――脱原発の一連の訴訟にかかわるきっかけは。
「福島の事故のあと、同じ滋賀県の故・吉原稔弁護士から『大津地裁原発差し止めの裁判をやりたいので弁護団に入ってくれないか』と誘われたのですが、私はお断りしていたんです。ついこの間まで法壇(裁判官席)の真ん中にいた人間が、自分がかかわったのと同種の裁判で当事者席に座るのは、品がないように思えて。それが、吉原弁護士が、とにかく話だけでもと来られたのですが、若手弁護士3人も一緒で、もう、私がウンと言うまで絶対に帰らないという雰囲気(笑)。それで『アドバイザーなら』と承諾したんです」
「そうして2011年8月、定期検査で停止中の関西電力福井県内の原発7基について再稼働を認めないよう求める仮処分申請を大津地裁に出しました。しかし、12年初め、吉原弁護士が病に倒れてしまって。弁護団を見渡すと若い人ばかり。オレがやると腹を決めました。これとは別に、11年6月、別の親しい弁護士から、放射線の悪影響を心配して子どもの疎開を求める集団訴訟に誘われ、その仮処分申請を福島地裁の郡山支部に出しにいくのですが、いきなりテレビカメラの前で先頭を歩かされ、記者会見を仕切らされ、中心的立場になってしまいました」

――原発の差し止めを認める06年の金沢地裁判決を書いたという経験も背中を押したのでは。
「やはり、3・11ショックです。原発の差し止めを認める判決を出したとはいえ、こんなに早く事故が起き、あんな大変な事態を招くとはイメージしていませんでした。福島の事故で明らかになった原発の集中立地や使用済み核燃料のプールの危険性についても、自分の認識の甘さを思い知らされました。もっとも、あれほどの事故が起きたのだから、日本の原子力政策は、私なんかが声を上げなくても根本的に変わるだろうと思いました。ところが、日本政府は何もなかったかのように原発再稼働路線を進めます。放射線防護もめちゃくちゃ。国民のために働いていると思っていた官僚に裏切られた、とショックでした。自分の中に『義憤』を覚えました」
北陸電力志賀原発2号機訴訟は1999年、地元住民はじめ17都府県の135人が北陸電力を相手取り、建設差し止め(のちに運転差し止めに変更)を求めて金沢地裁に提訴。井戸さんは2006年3月、同地裁の裁判長として、巨大地震による事故発生の危険性を指摘、営業運転中の原発の運転差し止め訴訟では初めて原告側の訴えを認める判決を言い渡した。高裁で原告が逆転敗訴し、10年に最高裁で確定した。ほかに住民側が勝訴したのは、高速増殖原型炉「もんじゅ」(福井県)の設置許可無効確認訴訟で、二審・名古屋高裁金沢支部が03年に許可無効の判決を出している。ただ、これも05年に最高裁が二審判決を破棄、住民側逆転敗訴とした。
■専門家に従うのが「無難」
――福島の事故前、原発の運転差し止めを求める訴訟は、ほとんどが原告住民側の敗訴でした。
「裁判官には、専門家の判断に従って判決を書いていれば『無難』と考えているところがあります。変に目立ちたくないんですね。流れに逆らって、それが間違いだと大きなミスになりますが、流れに従って間違っても、裁判所はみなそうなんだから、と言い訳できますよね」
――だからこそ、06年の金沢地裁判決は重い。のちに朝日新聞のインタビューでも、判決文の詰めの作業にとりかかり、布団の中で、言い渡し後の反響を考えていると真冬なのに体中から汗が噴き出した、と振り返っています。
「あの判決があったので、日本の司法は救われたという自負はあります。ただ、あの裁判は、原告側が原発の危険性について一応の立証をしているので、被告の電力会社側がそれでも安全だという立証ができているかどうか、が問題でした。で、それができていない、と。そこから差し止めという結論が自然に出てきました」
――北陸電力の姿勢はどうだったのでしょう。
「『慢心』と言えるでしょうか。まさか、差し止められることはないと。国の規制に従っているということさえ言っておけば、あとは裁判所が救ってくれるという感覚だったと思います。ただ、あの判決は、原発をやめろというのではなく、動かすなら耐震性能をもう少しアップしてくださいという内容でした。当時、私も原発がないと日本の社会は成り立たないと思っていました。福島の事故後、原発はなくても大丈夫と学びましたけど」
■「世論」が裁判官動かす
――福島事故後の脱原発訴訟で、井戸さんらは大きく「2勝」しています。まず、福井地裁(樋口英明裁判長)が14年5月、関西電力大飯原発3、4号機の運転差し止めを命じた。要は「経済より命」だと。改めて評価を。
「裁判官の矜持(きょうじ)を示した、と思います。矜持という言葉が一番ぴったりきますね。従来の裁判所の判断によらずに、判決全体を一からつくりあげているんです。失礼ながら、樋口裁判長が、それまでの他の裁判で、(流れに逆らうような)目立った判断をしたと聞いたことがありません。普通の裁判官だと思います。しかし、福島原発事故で被害の深刻さを目の当たりにして、思い切った書き方ができたのだと思います」
――そして、再稼働したばかりの関西電力高浜3、4号機に対して、大津地裁(山本善彦裁判長)が16年3月、運転を差し止める仮処分決定を出した。驚きました。すぐに効力が生じるため、実際に稼働中の原発が止まった。前代未聞のことです。
「山本裁判長ら裁判官は現実に止まることが分かっていたわけで、非常に勇気がいることだったと思います。しかし、山本裁判長は関西電力に対し、原告側の主張にかみあうように具体的に反論してくれと何度も警告していた。それに関電はちゃんと向き合わなかった。ですから、ああいう結論になるのも自然だったのだと私には思えます」
――井戸さんは、裁判官の認識も、市民の認識や意識が基盤と主張されています。
「はい。大津地裁の仮処分決定も、『原発はいらない』という大きな世論が支えだったと思います。逆に、あの大津地裁の決定が世論に与えた影響も大きいのでは。司法も世論を変える刺激になりうるということです。政治でも新潟県知事選で脱原発派の候補が勝つと、それもまた世論に影響しますよね。そういう一つ一つのトピックが互いに影響しあいながら、原発なんていらないという社会を醸成していくのではないでしょうか」
――裁判官が気負わずに原発の運転差し止めを判断できる日がくると。
「そのためにも、もっと世論が変わらないとダメです」
■「世界一安全」本当か
――法廷の外でも脱原発の「言論活動」をされています。例えば、日本の原発の建設費は1基4千億〜5千億円なのに対し、欧州では安全規制の強化などで1兆円超かかる、と講演で話されていますね。「半額でできて、なぜ世界一安全なのか」と。
「欧州で求められる(溶け落ちた炉心を受け止める)『コアキャッチャー』の設置や(大型航空機の衝突に耐える)二重構造の格納容器などは日本の新規制基準では必要とされていません。それらを求めなかったのは、電力会社が出せる程度の費用で補強させ、再稼働にこぎ着けるという全体戦略があったのではないでしょうか。コアキャッチャーなんて求めたら、費用がオーバーしてしまうということです」
――福島の事故後に民主党政権が定めた、運転期間を40年とする「原則」も骨抜きになりそうです。
「安倍政権は15年7月、30年度の電源構成で原子力を20〜22%と決めましたが、それを実現しようにも新設は厳しいので、40年超の老朽原発を動かすしかない、と考えたのでしょう。それで原子力規制委員会も、ほかに審査すべき候補はたくさんあるのに、あえて(40年超の)関西電力高浜原発1、2号機、美浜原発3号機の審査を優先して延長を認めた、と私は疑っています」
――大阪高裁の判事を退かれたのが11年3月31日。まさに東日本大震災福島原発事故の20日後なんですね。
「実は、私が生まれたのは1954年でビキニ水爆実験の年。任官した79年は米スリーマイル島原発事故があった年なんです。何かあるんですかね(笑)。退官前、地元に密着した街の弁護士になろうと思い描いて、自宅を買い求めていた滋賀県彦根市で弁護士事務所を開きましたが、いま、原発関連が仕事の7割ぐらいでしょうか。なかなか地元に根を張るにいたっていないですね」
――全国を飛び回っていますが、ご家族から何か。
「妻からは、ちょっとは依頼を断りなさい、と言われます。旅行に行くとか、そういうこともしたかったと、時々、ぶつぶつ言われます。本当に申し訳ないと思っています」
     ◇
井戸謙一(いど・けんいち) 54年、大阪府堺市生まれ、東京大学教育学部卒。79年に裁判官に任官。神戸や甲府、小倉、彦根、大阪、宇部、京都、金沢などの家裁・地裁・高裁を回り、11年3月31日、大阪高裁裁判官を最後に退官。現在、若狭湾原発の差し止めを求めた「福井原発訴訟(滋賀)弁護団」の団長を務めるほか、福島の事故で子どもたちに無用な被曝(ひばく)をさせたとして国や福島県の責任追及を求める集団訴訟青森県大間原発をめぐり対岸の北海道函館市が建設差し止めを求めた裁判の弁護活動にもかかわる。(聞き手・小森敦司)