原発避難いじめ 被害広げた大人たち - 東京新聞(2016年11月22日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2016112202000140.html
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愚かな大人がいかに子どもを追い詰めるか。福島第一原発事故で、福島から横浜に避難した転校生へのいじめの問題は、大人世界のゆがみを映し出した。人の痛みへの想像力が欠けているのだ。
「いままでなんかいも死のうとおもった。でも、しんさいでいっぱい死んだからつらいけどぼくはいきるときめた」
今は中学一年の男子生徒が、小学六年だった昨年七月に書いた手記である。非道ないじめを耐え忍びながら、大震災で学んだ命の重みをかみ締めて、生きる道を選んだ。正しい決断だったと思われる社会でありたい。
同じ苦境に立たされている子たちの励みになればと願い、公表したという。本来、こうした勇気や思いやりを培うことこそが使命であるはずの教育現場で、まったく倒錯した仕打ちが行われていた。
小学二年だった二〇一一年八月に横浜市立小学校に転入した。直後からいじめられ、やがて不登校になる。暴言、暴力、恐喝まがいの行為に日々切りさいなまれた。
「ばいきんあつかいされて、ほうしゃのうだとおもっていつもつらかった。福島の人はいじめられると思った」
残念ながら、原発事故で、福島には、放射能と賠償金のイメージがつきまとうようになった。心ない大人の偏見や差別意識にもあおられ、いじめの標的にされやすいことは容易に察しがつく。
学校と教育委員会はそうした特殊事情に配慮し、見守るのが当たり前である。にもかかわらず、いじめを放置した背景には、事なかれ主義と呼ぶべき体質が浮かぶ。
生徒の持ち物が隠されても、自己管理の甘さのせいにした。百五十万円もの遊興費が巻き上げられても、警察の領分として取り合わなかった。学校の対応である。
不可解なのは、警察を通じて金銭トラブルの実態が伝えられても、学校も、教委も腰を上げなかったことだ。小学生同士のやりとりである。金額の多さから異常事態を疑うのが当然ではないか。
調査した第三者委員会は「教育の放棄に等しい」と難じたが、今の教育環境のままでは、子どもにとって有害でさえある。
「いままでいろんなはなしをしてきたけど(学校は)しんようしてくれなかった」
学校は「忙しい」と、耳を傾けなかった。子どもの命や心を守ることより大切な仕事があるのか。文部科学省にも、指導するだけではなく、自省すべき責任がある。