(余録)昭和天皇のお印(皇族のシンボル)は… - 毎日新聞(2016年10月28日)

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昭和天皇のお印(皇族のシンボル)は「若竹」だが、その兄弟のお印もみな「若」がつく。逝去された三笠宮崇仁さまは「若杉」だった。それが史書に特筆されるのは、戦時中に陸軍の「若杉参謀」の別名で中国各地を視察したからである。
支那事変に対する日本人としての内省」とは視察後に若杉参謀が支那派遣軍総司令部で行った講話の題だった。幕僚向けに加筆印刷された原稿が今日残されているが、一読して驚かされるのは日本軍の戦争犯罪をも直視して厳しく反省を求めたその決然たる姿勢だ。
そこで中国の抗戦長期化の原因に挙げられているのは、日本人の「侵略搾取思想」や「侮華(ぶか)思想」であり、また抗日宣伝を裏付けるような「日本軍の暴虐行為」などなどだった。後に司令部はこの印刷原稿を「危険文書」とみなし、没収・廃棄処分にしたといわれる。
「私の信念が根底から揺り動かされたのは(中国での)この1年間だった。いわば『聖戦』というものの実体に驚きはてたのである」とは戦後になってからの当時の回想である。その後も特攻作戦に反対し、終戦時も皇族会議で陸軍の反省を求めた三笠宮さまだった。
古代オリエント史家となって堅実な学究生活を送った戦後だが、時に話題となったリベラルな言動も若き日の大胆な行動を思えば驚くにあたるまい。紀元節復活の動きに神武天皇即位は学問的根拠がないと反対したのも、歴史学者として譲れない筋を通したのだろう。
日本が侵略戦争の迷路をさまよった時代、皇族でなければできない軍国主義批判を自らの背に課した三笠宮さまだった。良識の存在は史書にしかと刻まれた。