相模原事件から考える 問われる「命の価値」 - 東京新聞(2016年10月22日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2016102202000144.html
http://megalodon.jp/2016-1022-1026-35/www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2016102202000144.html

社会にとって有益か。相模原市での障害者殺傷事件は、そうやって人間を値踏みする恐ろしさを示した。発生から間もなく三カ月。命に敏感でありたい。
「障害者がいなくなればいいと思った」「障害者は不幸しか作ることができない」−。障害者入所施設の元職員だった容疑者は、そう言い放ってはばからなかった。
愛知県春日井市の伊藤啓子さんは、息子の故晃平さんが再び侮辱されたと感じ、胸が締めつけられるような思いになった。重い知的障害のある自閉症の少年だった。

◆人は稼ぐ道具なのか
振り返ってみたい。
二〇〇七年十二月、名古屋市の短期入所施設に滞在中、暗がりの階段から落ち、十五年十一カ月の生涯を閉じた。職員二人がついていながら事故は防げなかった。
施設側が提案した損害賠償額は、同世代健常者の四分の一程度にすぎなかった。将来働いて得たと見込まれる収入に当たる逸失利益をゼロと見積もり、慰謝料も相場より低く抑えていた。
障害者の自立を支える立場にありながら、施設側の返答は「生きていても、社会に対する利益はないケース」だった。遺族が提訴に踏み切ったのは当然だろう。
「晃平には生きる価値がないと言われたと感じた」と、伊藤さんは当時の心境を語る。
「負担がなくなった上に、お金までもらえるのかという中傷もありました。人間は働くためだけに生まれるのでしょうか」とも。
いまだ癒えない心の傷口に塩を塗るかのごとく発生した相模原事件。障害者に対する容疑者の偏見や憎悪、あるいは優生思想は、施設側の姿勢と地続きではないか。
生産性という物差しで人間の価値を測り、お金に換算する。その結果、例えば障害者四人の命の重みも、健常者一人の命の重みに満たないという不条理が生じる。

◆差別助長する司法界
労働収入を基に逸失利益をはじく考え方は、交通事故の賠償額の計算方法として一九六〇年代に定着した。貧富の格差をそのまま命の格差として是認するような裁判実務が積み重ねられてきた。
障害者はもちろん、高齢者や失業者、非正規労働者、主婦や子どもら経済力の乏しい人の命の値段は安く見積もられがちになる。
それを当たり前と信じて疑わない社会通念が、相模原事件の遠景に浮かんで見える。良心に従って正義を貫くべき立場にある司法界自らが、差別的な慣習を擁護してきた責任は重いのではないか。
利益を生み出す道具としてのみ人間を評価するのは、個人を属性によって序列化することを禁じた憲法の理念に背くものだ。そう唱える声はかねて根強くある。
遺族は四年前、障害年金を基に算定された七百七十万円余りの逸失利益と、慰謝料の上乗せを和解の形ながら勝ち取った。せめてもの救いだったのは、晃平さんも仕事に就ける可能性があったと認められたことだろう。
とはいえ、国家には元来、働く意思と能力のある国民に対して勤労の機会を与える義務がある。
ましてや、障害のあるなしで分け隔てをしない平等な社会づくりを条約と法律で掲げ、日本は走りだしている。周りの意識や環境が変わるにつれ、障害者が秘める潜在能力は大きく開花しうる。
逸失利益という考え方は一見合理的なようで、未知の力、存在のかけがえのなさを度外視する。それを根拠に命を値踏みする旧弊は、もはや断ち切りたい。
かつてナチス・ドイツは優生思想を信奉し、民族浄化の名目で障害者に安楽死を強いた。「生きるに値しない命」というレッテルを貼り、殺害した。
暗黒の歴史にも、残虐非道を非難する良心が息づいていたことは記憶にとどめたい。四一年八月のミュンスター司教フォン・ガーレンの公開説教は、ヒトラーが中止命令を出すきっかけとなった。
「あなたたちも私も、なにかを作り出すことができる間だけ、他の人たちから生産的な人間と認められる間だけ、生きる権利があるのでしょうか」(日本医史学雑誌、二〇〇三年六月)
もっとも、虐殺はひそかに続行され、二十万人以上の犠牲者を生んだという。いわば思想的慣習の暴走がもたらした結末でもある。

◆かけがえのなさとは
非生産的として抹殺する社会では、やがて誰もが危うくなる。いつ傷病や老衰で働けなくなるかもしれないのだから。「ヒトラー思想が降りてきた」と話したという相模原事件の容疑者は、自らもそうなりうると想像しなかったか。
人間の命に値札をつけようとする発想が悲劇を招く。どんな命も一度失われたら等しく取り戻せない。ならば、真に平等な償い方とはどうあるべきか。そんな視点からも、命の価値を問い直したい。