特集ワイド 退任前に泉田・新潟知事語る 原点は「原発震災」体験 - 毎日新聞(2016年10月12日)

http://mainichi.jp/articles/20161012/dde/012/010/003000c
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原発再稼働に慎重な立場を取ってきた新潟県泉田裕彦知事(54)が、24日で任期満了を迎え、県庁を去る。4選を目指してきた「モノ言う知事」が立候補の撤回を突然表明したのは8月下旬だった。東京電力と対峙(たいじ)してきた原動力は何か。立候補見送りの背景には何があったのか。退任を前に語った。【沢田石洋史】
泉田氏は就任当初から地震の対応に追われた。任期が始まる約30時間前の2004年10月23日、県内陸部を震源とするマグニチュード(M)6・8の新潟県中越地震が発生したのだ。最大震度7を観測。この時、県庁近くにいて駆けつけたものの「防災局がどこにあるのかも分からなかった」と振り返る。「まず、東電の柏崎刈羽原発に影響がないか、県関係者に確認したのを覚えています」。原発に異常はなかったが、死者は68人、負傷者は4795人に上った。避難生活を送る人は最大で10万人を超えた。
中越地震から2年9カ月後、今度はM6・8の中越沖地震が襲った。最大震度は6強で、死者15人、負傷者2316人となった。
柏崎刈羽原発も無事ではなかった。1号機での揺れの強さは耐震設計上の想定の約2・5倍に達し、3号機では火災が発生、黒煙が上がった。消防と連絡が取れるまで十数分かかり、消防隊が到着したのは通報の約1時間後。鎮火まで約2時間かかった。泉田氏は「世界初の『原発震災』が起きた」と被災直後の様子を語り始めた。
「東電のマニュアルでは、自衛消防隊を結成して鎮火に当たるはずでしたが、消火ラインが破断して水が出ず機能しませんでした。県庁と原発との間には非常用のホットラインがあったが、それもつながらない。地震で約1・5メートルの段差ができるほど地盤が動き、ホットラインの設備を置いた部屋がゆがんで、ドアが開かなかったためでした。原発から放射性物質がごく微量ながら放出されました」
2度の震災を経験したことで、見えたものは何か。
「道路の損傷や、避難する車による渋滞で緊急自動車はなかなか原発にたどりつけない。また、原発に向かう途中、倒壊した住宅に人が閉じ込められているのが分かっても『助けて』と叫ぶ住民を振り切って現場に向かわないといけない。原発震災では、こういう極限状況に至ることを県職員だけでなく、住民が体験したのです」
県は、原発と連絡がつかなかったことを重視。東電にホットラインが通じるよう強く求め、原発敷地内に免震重要棟が設置された。消防対応の改善にも取り組んだ。「東日本大震災前は、原発震災を体験したのは新潟県だけ。だから、『ここが問題だ』と指摘し続けてきました」と泉田氏。
新潟県の行動は、他の原発の防災体制の見直しにもつながった。「『免震重要棟が新潟だけにあるのはおかしい』という声が強まり、福島第1原発にも設置されたのが東日本大震災の8カ月前。もし、私たちが主張しなかったら、福島第1原発に免震重要棟はなかったかもしれない」
巨大地震と大津波に襲われた福島第1原発は、免震重要棟があったために事故対応が続けられた、とされている。
「問題は東電の体質」
福島第1原発事故後、泉田氏は東電や原子力規制委員会との対決姿勢を鮮明にした。柏崎刈羽原発の再稼働を目指す東電に対し「事故の検証と総括なしに、再稼働の議論はできない」と言い続けた。13年7月に東電の広瀬直己社長と面会した際には「安全安心と、お金、どちらが大事なのか」との質問を突き付け、話題になった。
東電は福島第1原発炉心溶融メルトダウン)を隠蔽(いんぺい)してきたとも批判してきた。「問題なのは東電の体質。メルトダウンを隠し、虚偽説明を続けてきた。情報を開示せず会社を守ろうとする組織では駄目。うそをついたり、保身に走ったりする人を排除する組織でないと、原発は安全に運転できない」。今も東電への不信感は消えていない。
震災後の新規制基準を定めた原子力規制委に対しても「基準は原発立地自治体の意見に耳を傾けずに作られた。住民避難に責任を持つ機関と調整もしないやり方は初めて」と批判した。
住民避難の在り方を定めた国の原子力災害対策指針については「非現実的」と突き放す。
問題視するのが、指針で原発から5〜30キロ圏の緊急防護措置区域では屋内退避を原則と定めたことだ。「新潟県では圏内に約44万人が暮らしています。事故後、放射性プルーム(放射性雲)が飛んでくる前に、(地方自治体の)誰が甲状腺を守るための安定ヨウ素剤の配布を命令し、誰が住民に配るのか。それに熊本地震では本震が後から襲って、家の中に避難し犠牲になった人がいることを無視してはいけません」
住民を避難させるにしても、主要道路が損壊したり、避難用バスの運転手が見つからなかったりするなどの問題がある。「誰が被ばくのリスクを背負って作業に当たるのでしょうか。一方、米国では、放射線に対応する知識や装備を備えた人に事前に宣誓書にサインしてもらい、いざという時に現場に向かうシステムがある。日本の対応は不十分な点が多すぎる」

「私がいると迷惑」
地元では4選を目指すのは既定路線と見られていただけに、立候補撤回を惜しむ県民も多くいた。泉田氏は立候補を見送った理由について、県が出資する海運会社の子会社が起こしたトラブルを巡り、地元紙・新潟日報が知事の責任を追及するキャンペーンを繰り広げたことを挙げる。同紙のシェアは県内の67%に上る。泉田氏は「立候補しても焦点がずれ、訴えを県民に届けられないと判断した」。この理由に対しては「分かりにくい」との指摘が県内外から上がった。
新潟日報は毎日四十数万部配られている。その新聞にうそを書かれ続け、県の主張を黙殺されたらへこむ。理由はそれだけ。県職員が一生懸命に議会用の答弁をしても『虚偽』と新聞に書かれる。私がいることによって県職員に迷惑をかける。選挙に出ると、後援会も問題の釈明に追われる。それならば、しがらみのない人が立って未来の新潟を語ってほしい。そういう気持ちで身を引きました」
一方、新潟日報は8月31日朝刊で服部誠司編集局長の見解を公表した。「報道機関に対する圧力にも等しく、許しがたい行為」と批判し、一連の報道を「綿密な取材と事実に基づく」として、知事の「うそ」との主張を否定している。
原発への対応が注目されてきたが、新潟水俣病患者の救済スキームを作り上げるなど国と対等に渡り合ってきた。その行動力、歯に衣(きぬ)着せぬ発言などから「変人」とする人物評もある。「普通のことしか言っていません。長いものに巻かれず、おかしいことはおかしいと言ってしまうタイプなんでしょう」
泉田氏は退任後について「何をするか考えていない」と言うが、「原発震災」の体験は愚直に言い続けてほしい。
■人物略歴
いずみだ・ひろひこ
1962年、新潟県加茂市生まれ。京都大卒。87年に通産省(現経済産業省)入省。資源エネルギー庁石油部精製課長補佐、国土交通省貨物流通システム高度化推進調整官などを経て新潟県知事に全国最年少(当時)の42歳で初当選。選挙公約をベースに数値目標を盛り込んだ「新潟県『夢おこし』政策プラン」を策定するなどローカルマニフェスト運動の実践に取り組んだ。