(余録)「よく詩を書いていた。詩人には… - 毎日新聞(2016年10月15日)

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「よく詩を書いていた。詩人には働き口がないから心配だった」。かつてこう語っていたのはボブ・ディランさんの母親のビーティーさんだった。高校ではバンドに熱中していた息子だが、親はそれが「働き口」とは思わなかったらしい。
1962年ごろから急に自分の歌う曲作りに熱中し出したのは「自分の歌いたい曲はまだ存在していない」ことに気づいたからだった。フランスの詩人ランボーの「わたしはべつのだれかである」という一節を目にして、頭の中の鐘が「一気に鳴り始めた」のだった。
そのころ仲間とビールを飲みながらの演奏の後、家に帰って一気に書き上げたのが「風に吹かれて」だったといわれる。60年代を知る人なら、そのくり返される静かな問いかけが旧来の価値観に否(いな)を突きつける世界的激動の背後に常に流れていたのを耳にしていよう。
それから半世紀。「ライク・ア・ローリング・ストーン」の題名そのままに、絶えず新たな境地を求めて表現の地平を広げてきたディランさんに与えられるノーベル文学賞である。だが音楽アーティストへの文学賞には欧米の文学界から批判の声も出ているやに聞く。
ただそれをいうなら、賞の事務局が古代ギリシャの詩人ホメロスを例にしたように、詩の原点が洋の東西を問わず詠(よ)み歌われるものだったのを思い起こしてもいい。身体から切り離された文学に対し、「声の文芸」を復活させたノーベル賞の新機軸(しんきじく)というべきなのか。
「どんなレッテルを貼られてもかまわない。歌うためならね」もディランさんの言葉である。当人にはノーベル文学賞も新たなレッテルの一つにすぎまい。