(記者の目)福島と熊本で取材して=宮崎稔樹(福島支局) - 毎日新聞(2016年9月1日)

http://mainichi.jp/articles/20160901/ddm/005/070/022000c
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悲しみが伝えること
東日本大震災東京電力福島第1原発事故の被災地、福島県に新人記者として赴任して3年目の私は、2週間の日程で熊本地震を取材した。九州は出身地だが、被災者に受け入れてもらうのは想像以上に難しかった。被災地で取材を重ねながら、悲劇に見舞われた人たちにどう接すべきか自問している。答えは見つからないけれども、私の体験を記したい。
5000棟以上が倒壊し、20人の死者が出た熊本県益城町に入ったのは地震発生1カ月後の5月14日。被災地でのメディアの強引な取材がネット上で「マスゴミ」などと批判されていた。心ない同業者の行為への憤りと悔しさを抱えながら取材を始めた。
記者から目背け口つぐむ被災者
「頑張らんばね、熊本」。カーラジオから九州弁が聞こえる。長崎県で生まれ育った私にとって聞き心地の良い言葉。私も自然と九州弁が口をつくようになった。だが、カメラを提げて町を歩くと、すれ違う人たちは目を背けた。1階が潰れた家のベランダで洗濯物を取り込んでいた中年男性は言った。「記者の人に話すことはなか」。九州弁が胸に刺さった。次から次に来ては「家の中を見せて」「お気持ちは」と質問する記者にうんざりだという。
「自分の仕事が取材相手を苦しめているのでないか」。福島でもそう思うことが少なくない。今年1月、大震災発生から丸5年の紙面づくりに向け、取材に応じてくれる遺族を探していた時、津波で両親と祖父を失った高校3年生の男子生徒のことを知った。
高校の下校時に校門で待ち構え、声をかけた。世代が近いこともあり、漫画の話題で盛り上がった。だが、話が核心に迫ると彼から笑顔が消えた。「悲しさは消えない。震災の話は思い出したくないんです」。この後、私からの連絡に返答は来なかった。締め切りが迫り、「何とか記事にしないと」と焦りが先に立っていた。その2カ月前、自分が事故の遺族になった経験があるにもかかわらずだ。
昨年11月12日、長崎の祖母宅から火が出て、祖母が亡くなった。原因は不明だが、失火とみられる。すぐに長崎へ向かうと、毎年正月に親戚が集まる古い家は真っ黒な焼け跡になっていた。取材と同じようにカメラを向けたが、シャッターをどうしても切れなかった。
翌日の毎日新聞長崎面の片隅に記事が載った。「宮崎みよ」と祖母の名がある。私も福島で日々同じような記事を書いているのに、妙に重たかった。葬儀場で疲れ切った顔の父がつぶやいた。「警察に消防。こがん時に同じことば何度も聞かれるのはしんどか。もしマスコミの人も来たら、きつかったろうな」
苦しみ聞く仕事、絶えず内省的に
もやもやを抱えつつ取材に来た熊本。途方に暮れていると、犬を抱いた女性が歩いてきた。私はとっさにカメラをカバンにしまった。自己満足かもしれなくても、記者としてではなく、同じ九州人として接したかった。「犬、かわいかですね」と話しかけた。女性は「なかなか歩きたがらんとさね。動物も変化に敏感ね」と犬をなでた。
歩きながら話をした。女性は益城町の避難所のテントで暮らす中神由子さん(72)。大きなマスクをしている。「風邪ですか」と尋ねた。「そうじゃなくてね」。マスクを外すと顔に黒いアザがあった。地震でタンスが倒れ、直撃したという。笑顔で接してくれる姿に申し訳なさが募った。
中神さんは1人暮らし。自宅は半壊し、余震が怖くて避難したが、犬がいるので体育館に入らなかった。私は記者だと明かし、数日間、彼女の元に通って話を聞いた。配られるコンビニ弁当は脂っこく、喉が渇いて何度も夜に目が覚める。日中過ごすテントは気温が40度近くになる。好きな茶道の稽古(けいこ)にも行けず、散歩で会う「犬友」とのおしゃべりが楽しみ−−。被災者の苦境を伝えたかった。
「記事にさせてもらえんですか」。中神さんはしばらく眉をひそめた後「これも何かの縁かもね」と言ってくれた。数日後、愛用のサンバイザーをかぶってほほえむ中神さんの写真と「愛犬歩きたがらず」との見出しが付いた短い記事を載せることができた。
記者の仕事は人の痛みに触れることを避けて通れない。時に聞きにくいことを聞くのがメディアの大切な役割だからだ。そういう記事が世の中を動かすきっかけになることがある。だからこそ、私たちは「自分の都合ばかりを優先していないか」と、絶えず内省的であらねばならない。
掲載後、中神さんが声をかけてくれた。「しばらく連絡ば取っとらんやった友達から『記事みたよ』と電話もらい、うれしかった」。伝えるという仕事が誰かの幸せにつながると信じたい。