(余録)小説家の武者小路実篤は晩年… - 毎日新聞(2016年8月27日)

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小説家の武者小路実篤(むしゃこうじさねあつ)は晩年、東京都調布市京王線仙川駅近くに住んだ。旧居に隣接して作られた記念館には多くの資料が保管されているが、その中に武者小路が理想郷を目指して宮崎県に作った「新しき村」の会則の中国語訳がある。
現代中国文学の父、魯迅(ろじん)の弟で作家の周作人(しゅうさくじん)が手書きしたものだ。周は武者小路の考え方に共鳴し、1910年代に中国で大きな影響力を持った雑誌「新青年」に「日本的新村」を発表した。若き日の毛沢東(もうたくとう)も「新村」に魅せられ、北京滞在中に周を訪ねたという。
日清戦争後、多くの中国人が日本を近代化のモデルと考え、留学した。魯迅、周作人もそうだが、「新青年」を創刊し、中国共産党の創設を主導した陳独秀(ちんどくしゅう)も5回にわたって日本に留学している。
在日華僑作家の譚〓美(たんろみ)氏の新著「帝都東京を中国革命で歩く」(白水社)はこうした中国人留学生の足跡をたどっている。孫文(そんぶん)、蒋介石(しょうかいせき)、周恩来(しゅうおんらい)ら近代史を彩る要人たちが日本で過ごし、さまざまなエピソードを残した。
清国留学生の宿舎が並び、チャイナタウンのようだった早稲田周辺。周恩来も学んだ日本語学校があり、今も続く老舗中華料理店を生んだ神田・神保町かいわい。湯島の寺には関東大震災の中国人留学生犠牲者を追悼する石碑が残る。
新青年」発刊から9月1日で100年になる。熱心な愛読者だった毛沢東の「新村」への傾倒が後の人民公社にも影響を与えたという説を聞くと、日中間の人のつながりの深さ、複雑さに感慨を覚える。いがみあっていただけではない歴史を刻む場所を訪れ、交流の貴重さについて考えてみたい。