(余録)東京の高校で生物を教えていた中山伊佐男さん… - 毎日新聞(2016年8月24日)

 
http://mainichi.jp/articles/20160824/ddm/001/070/160000c
http://megalodon.jp/2016-0824-0930-33/mainichi.jp/articles/20160824/ddm/001/070/160000c

東京の高校で生物を教えていた中山伊佐男(なかやまいさお)さん(86)が国会図書館に通うようになったのは33年前だった。目的は数十万ページもある太平洋戦争の米軍資料の中から「TOYAMA」を探すことだった。
旧制中学4年生だった1945年8月2日未明、東京から疎開した先の富山市で米軍機の空襲を受けて、母親と1歳の妹が亡くなった。葬儀はできず、拾い集めた木切れで遺体を焼いた。
なぜ母と妹は焼き殺されたのか。長い間抱えていた疑問を解く糸口は、機密解除で公開が始まった米軍の資料から見つかった。国会図書館が購入した文書を2年がかりで読み込んでいくと、驚くような事実が浮かび上がってきた。
富山空襲は焼失面積当たりで比べると東京大空襲の10倍近い量の焼夷(しょうい)弾が投下され、市街地の99・5%が壊滅していた。母と妹は軍需工場を狙った爆撃の巻き添えになったと思っていたのに、住宅地を焼き尽くすことが目的だったと知る。2人は逃れようのない標的とされていた。
富山だけのことだったのか。他の都市の空襲も調べてみた。米軍は住宅地だけを最も効率良く焼き払う計画を綿密に立てていた。無差別爆撃ではなく住民が標的の爆撃と確信した中山さんは、全国の20都市以上の空襲の実態を調べた。被災者が国家賠償を求めた大阪空襲訴訟では原告団の証拠として提出されたこともある。
生物教師となったのも、母と妹を失った日から「命とは何だろう」と自らに問い続けてきたためだ。空襲で理不尽な死を遂げた人たちの命に思いを巡らせながら、米軍資料から真相を解き明かす日々は戦後71年たったこの夏も続いている。

中山伊佐男さんが語る富山大空襲(NIE)- 北日本新聞
http://webun.jp/card/5074

  1. 東京の空襲を機に疎開 今から69年前の夏、富山市アメリカ軍の空襲を受けました。火災を起こすことを目的とした爆弾
  2. 8月2日 天まで焼けた 1945(昭和20)年8月1日午後10時ごろ、けたたましく空襲が来たことを知らせる警報が鳴り…
  3. 防空壕に母と妹の遺体 恐ろしい一夜が明け、まだ火がくすぶって熱いまちの中を家へ戻りました。しばらくすると、妹が祖母と…
  4. 飛来したのは182機 高校の生物の教員をしていた1981(昭和56)年ごろのことです。高木敏子さんの「ガラスのうさぎ」が出…
  5. 爆撃目標は住宅密集地 アメリカ陸軍航空隊の総司令官カーチス・ルメイが最大兵…
  6. 市街地の99.5%焼く 東京、大阪や富山も含め、日本の都市が破壊されたアメリカ軍の空襲は、すべて焼…
  7. すべての戦争なくしたい 戦争が終わった翌年の5月、母と妹の遺骨を抱いて東京へ行きました。このときにお経を…