道徳教育 心を評価できるのか - 東京新聞(2016年8月17日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2016081702000143.html
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思いやりや規範意識の土台となる道徳性は、成長ぶりを把握しうるものなのか。文部科学省の専門家会議が打ち出した道徳科の評価のあり方には疑問が残る。先生の好みに左右されてはたまらない。
これまで教科外の活動とされてきた小中学校の道徳の時間は、二〇一八年度から順次、正式の教科に格上げされる。先生は検定教科書を用いて授業を行い、子どもの成長を評価せねばならない。
道徳の教科化論議は、大津市でのいじめ自殺を一大契機として加速した。専門家会議がまとめた指導や評価の方法に従えば、いじめは解消されるのか。
効果的な指導法として、例えば仲間との話し合いや役割演技を通して、ものごとを多角的、多面的に考えさせるという。「議論する道徳」の導入を目指す文科省の既定方針を踏まえたものだ。
確かに、子どもに徳目を暗唱させるとか、偉人の生き方を模範として強いるといった心配は不要なのかもしれない。それでも、なぜ教科化なのかは理解し難い。
情意や信念、態度、行動、性格特性をふくめ人格を形成する道徳性は、考え、議論すれば養われるのか。系統立てて組織化された国語や社会、理科などの知識や技術を学ぶごとく身につくのか。科学的な根拠ははっきりしない。
評価法については、公平、公正が担保されない懸念がある。
子どもを比べず、成長過程を数値ではなしに記述で表し、入試の合否判定には使わないというたがをはめた。それ自体が心のありようの品定めの難しさを物語る。
では、どうやって変化を知るのか。発言や感想文、また仲間の話を聞き、考える姿を追跡して、問題を多様な視点から捉えたり、自分事として理解したりできるようになったかを見取るという。
ならば、先生は学級の一人ひとりと分け隔てなく信頼関係を築くことが前提となる。子どもが場の空気を読み、先生の顔色をうかがうようでは、真の評価はおぼつかない。多忙な先生が親身かつ丁寧にこなせるのか。
いじめ問題に立ち戻れば、子どもの道徳性の欠如にばかり原因を求める近視眼的な風潮は、背景に横たわる深刻な事態を覆い隠しがちだ。
競争一辺倒の学校や経済格差が広がる家庭、結びつきの薄い地域、拝金主義が漂う社会…。こうした不道徳な環境の改善こそが先決であり、政治の重要な責務でもある。それを棚に上げて、子どもの内面に介入するのは筋違いだ。