「科学は平和のために」 飛行爆弾開発に従事の90歳元東大生 - 東京新聞(2016年8月15日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201608/CK2016081502000109.html
http://megalodon.jp/2016-0815-0914-24/www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201608/CK2016081502000109.html

◆軍事研究復活に懸念
戦時中、優秀な研究者や学生が軍事研究へと駆り出されていった。東京都目黒区の藤原祥三さん(90)もその一人。東京帝国大(現東京大)で爆弾の開発に関わった。戦後日本の科学界は戦争協力への反省から、軍事研究に距離を置いてきた。しかし、非軍事の誓いが揺らぐ今、藤原さんは「科学は平和のために使われるべきだ」と語る。 (望月衣塑子)
「なぜ開戦に踏み切ったんだ」。七十一年前の八月十五日、藤原さんは東京帝国大の航空研究所(目黒区)で玉音放送を聞き、ぶつけようのない怒りが込み上げた。三月の東京大空襲では、炎に包まれた街を屋上から目の当たりに。「政府や軍は、国民にめちゃくちゃなことを強いた。その結果が敗戦なのか」
五人兄妹の三男として武蔵野市で生まれた。一九四四年十月、東京帝大の第二工学部航空機体学科に入学。大学側から極秘で研究所に通うよう言われた。
指導したのが、後に日本のロケット開発の父と言われた糸川英夫助教授。藤原さんら航空機体学科の新入生四十人は、糸川さんから開発中の飛行爆弾の軌道計算を命じられた。何時間も計算し、別の人の計算結果と違えば一からやり直し。その繰り返しだった。
「骨の折れる作業だったが、完成すれば特攻隊の戦死者を出さずに済むと思い、歯を食いしばってやった」。爆弾は軍艦などの砲撃で生じる熱線を感知し、その方向に誘導されるもの。若者たちが乗る特攻機の代わりになると信じたが、未完のまま終戦を迎えた。
日本が連合国軍総司令部(GHQ)に兵器製造を禁じられていた四九年、三菱重工業に入社。一時期、防衛大に納入する実験施設の開発に関わったが、ほとんどは軍事と無関係の部門で働いた。平和国家の道を歩んできた日本だが、二〇一四年に政府が集団的自衛権の行使を容認し、一五年に安全保障関連法を強行採決した。防衛省は軍事につながる大学などの研究に資金提供を開始した。
藤原さんは「軍部が台頭した戦前に逆戻りしているのではないか」と不安を感じる。自衛隊の存在は認めるし、最低限の軍事研究もやむを得ないと思うが、「戦後日本の平和を守り続けた憲法九条を変え、軍隊を持つべきではない」。
終戦の日を迎えるたび、研究所での苦い記憶がよみがえる。「あのころは仕方なかった」と思う一方で、「本質的には、科学や学問は戦争のためではなく、平和な社会を築くために使われるべきだ」と訴える。「再び戦争をしてはいけない。それだけは、死ぬまで言い続けたい」