(私説・論説室から)再び「自由からの逃走」か - 東京新聞(2016年7月25日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/ronsetu/CK2016072502000132.html
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世界各地のさまざまなレベルで秩序が綻(ほころ)び、液状化しているように見える。殊に厄介なのは、過激派組織イスラム国による無差別テロの拡散である。悲しいかな、最近もバングラデシュで多くの日本人が犠牲になった。
不可視な敵ネットワークへの恐怖と不安から、民衆は強力なリーダーを望んでいる。欧州諸国では排外主義を掲げる極右勢力が台頭し、米国ではムスリムの入国制限を訴えるトランプ氏が共和党大統領候補に決まった。
人間同士の殺戮(さつりく)行為は同じなのに、国家間の戦争に反対はしても、テロとの戦争には異を唱えない風潮がある。諦めなのか。国境が意味を失った現代、民衆は差し迫った脅威の除去を請い、権力依存へと傾くのだろう。
テロの封じ込めを大義名分に、権力が肥大化しやすい時代である。裏返せば、自由や人権、民主主義といった近代社会の理念を、民衆が無自覚に放棄しかねない危うさがある。
第一次大戦末期の君主制の崩壊や資本主義の進展は、ドイツ民衆を封建的束縛から解放した。同時にそれは伝統や慣習を解体し、自由ゆえの孤立感や無力感を増大させた。一九三〇年代、民衆の経済的欠乏はもとより精神的不安を解消したのはヒトラーだった。
ドイツの社会心理学者フロムが「自由からの逃走」と分析したその民衆心理が、地球規模で広がらないか。今は少なくともテロが煽(あお)る憎悪や差別にのみ込まれまい。 (大西隆