(余録)夏の午後、退屈した家族の一人が「隣町に食事に行こう」と言い… - 毎日新聞(2016年7月6日)

http://mainichi.jp/articles/20160706/ddm/001/070/153000c
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夏の午後、退屈した家族の一人が「隣町に食事に行こう」と言い、そろって出かけた。だが暑さとほこりで道中も食事もさんざんだった。帰ると全員が口々にぼやいた。「みんなが行きたそうだから行ったが、私は本当は家にいたかった」
ひょんな拍子にその場の空気に引きずられ、誰も好まない決定をしてしまうのは日本人だけに限らない。そんな集団思考の危うさを指摘した米経営学者のたとえ話である。これが「アビリーンの逆説」と呼ばれるのは、たとえ話の隣町の名がアビリーンだったからだ。
「われわれはアビリーンに向かっていまいか」は集団で物事を決める時には常に心せねばならない問いだろう。しかし世界が仰(ぎょう)天(てん)したのは英国の欧州連合(EU)離脱へと向かうドライブの途中、その言いだしっぺたちが次々に運転席から逃げ出していく光景である。
国民投票直後から公約のウソを認めて国民をあきれさせた離脱派のリーダーたちだ。その筆頭格のファラージ独立党党首が「目標は達成された」と、党首辞任を表明した。もう一人の立役者、ジョンソン前ロンドン市長はすでに保守党党首選への不出馬を決めている。
社会学ウェーバーが名講演「職業としての政治」で政治家に求めたのは、自らの行為の結果に責任を負う「責任倫理(せきにんりんり)」だった。ウソで離脱熱をあおった末にその政治責任を放り出されては、今になって「本当は家にいたかったのに」とぼやく国民も浮かばれない。
公約にウソや扇動はないか。結果に責任を負う情熱や判断力に欠けてはいないか。英国民のアビリーンへの旅も他山の石とすべきわが参議院選挙である。