沖縄戦収容所 消えぬ記憶 孤児たち次々衰弱死 - 東京新聞(2016年6月19日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201606/CK2016061902000120.html
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沖縄戦では、米軍保護下にあった民間人収容所でも多くの死者を出した。特に犠牲が大きかったのは、米軍の攻撃からの逃避行中に親と死に別れ、戦争孤児となった幼子たちだった。収容所に送られた体験者は「衰弱して死んでいった子どもたちの姿が忘れられない」と語る。
七十一年前の七月、当時二十歳だった本村つるさん(91)=那覇市=は、胡差(こざ)(現沖縄県沖縄市)にあった収容所にいた。その一角にあった孤児院の中の光景が、今も脳裏に浮かぶ。
「瓦ぶきの民家と農作物の倉庫などを改造した孤児院の中は、ベニヤ板に仕切られた狭い部屋がいくつもあり、孤児たちが床に寝かされていました」
陸軍病院の看護要員として学徒動員された本村さんは、その十日ほど前、教師や他の女学生とともに米兵に捕らえられた。別の民間人収容所で看護師として一週間ほど働いた後、二十人ほどの戦争孤児たちとともに、トラックで胡差まで運ばれた。
当時、米軍は各地の民間人収容所内に計十三カ所の孤児院を設置し、親を失った子どもを収容していた。胡差の孤児院も、その一つだった。
本村さんは「子どもたちは下痢が続いている状態で、汚れた部屋を水で流すのが最初の仕事でした」と振り返る。
胡差の収容所では、五百四十人の収容者が死亡したが、そのうちの四割近い二百八人は孤児だった。

その胡差の孤児院にいたのが、当時八歳だった神谷洋子さん(79)=同県うるま市。家族との逃避行の途中、潜んでいた壕(ごう)の入り口付近に爆弾が落ち、母と弟を失った。戦場をさまよう中、米兵に保護されトラックで孤児院に送られてきた。
「仏壇の前の狭いスペースに、十歳未満の孤児五〜六人と一緒だったのを覚えている。首から下げたおわんにおかゆやミルクを出されたが、みんな衰弱していた」と神谷さんは当時の記憶をたどった。
本村さんは一九四六年一月まで、孤児院内に開設された小学校の教師も務めた。
「戦争さえなければ、あの子たちは親元で育てられていたはずなのに…。今でも悔しい思いでいっぱいです」 (編集委員・吉原康和)