憲法「改正」と個人の社会的自由(山口一男シカゴ大学教授) - ハフィントンポスト(2016年6月15日)

http://www.huffingtonpost.jp/kazuo-yamaguchi/constitution_b_10468944.html

まず憲法13条「改正」が問題である

筆者は今の日本は重大な危機に面していると考えている。憲法「改正」問題のことだが、9条についてではない。13条(および関連して21条)のことである。それについて議論したい。

その前に現行憲法のもとでの戦後70年を考えると、いくつかの問題が残り(男女の不平等など)、新たな問題も生まれている(財政危機、不安定雇用の増大など)とはいえ、日本の戦後史は間違いなく成功の歴史だったと筆者は考えている。

戦後の焼け跡から出発して、アジアで最初に経済先進国の仲間入りをし国民が豊かになっただけでなく、この間一度も戦争に巻き込まれて戦死者を出すこともなく、また犯罪率が先進国中でも極めて低い安心な国を作り上げてきた。また1990年以降経済成長は低迷しているとはいえ、その間市民社会の成熟度は増してきた。

例えば情報公開法の制定や、長らく民事不介入のもとで見過ごされていた家庭内暴力児童虐待・セクハラなどの防止の強化である。最近では欧米に比べこの点では劣っていた経済・政治における女性の活躍も推進の機運にあり、ヘイトスピーチも対策法ができた。これらのすべてを戦後の憲法のおかげだとは言い切れないが、少なくとも社会的自由が広く保障され、組織を通じてであれ個人としてであれ、数多くの個人がその能力を発揮でき、言論と表現の自由の保障される自由で平和な社会であったことが重要条件であったことは疑うべくもない。

だから「憲法改正」を政党が考えるなら、その改正が例えば今後70年、現行憲法にも増して、国民の豊かさを維持・発展させ、国民の幸せを実現するための国づくり基礎となるという合理的根拠が必要と考えるのは当然であろう。しかし自民党の13条「改正」の意図はこのようなものとおよそ正反対である。

なぜならその意図は、下記で説明するように、個人の社会的自由を現在より大きく制限し、為政者による国民の国への支配従属を強化することで、わが国を「強国」にしようという、およそ時代錯誤で、わが国や他国のそのような政治の失敗の歴史に全く学ばない、「憲法改正」の名を恥ずかしめる策士の策と筆者には思えるからだ。

日本国憲法
十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。