辺野古決定 政権の本音 梶山元官房長官、98年に書簡 - 毎日新聞(2016年6月3日)

http://mainichi.jp/articles/20160603/k00/00m/040/146000c
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米軍普天間飛行場沖縄県宜野湾市)の返還に米側と合意した故橋本龍太郎元首相の下で沖縄問題を担当した故梶山静六官房長官が1998年、本土(沖縄県外)の基地反対運動を理由に、同県名護市への移設以外にないと記した直筆の書簡が残されていることが分かった。政府はこれまでほぼ一貫して沖縄の地理的優位性や米軍の抑止力を名護への移設理由と説明しているが、当時の政権中枢が「本音」とも言える見方を示していたことで、名護移設の是非を巡り改めて論議を呼びそうだ。【鈴木美穂】

本土の反対懸念「名護よりほか無い」
書簡は縦書き便箋3枚。欄外に「衆議院議員 梶山静六 用箋」と印刷されている。普天間返還と名護市辺野古キャンプ・シュワブ沖への機能移設を巡っては97年12月、名護市の住民投票で反対多数となりながら、当時の比嘉鉄也名護市長が受け入れと辞任を表明し、翌98年2月に行われた市長選で比嘉氏後継の岸本建男氏が当選。書簡はそれから間もなく書かれたとみられる。

移設先について書簡は「シュワブ沖以外に候補地を求めることは必ず本土の反対勢力が組織的に住民投票運動を起こす事が予想されます」と記載。「比嘉前市長の決断で市として受け入れを表明し、岸本現市長が『受け入れ』のまま市の態度を凍結するとしている名護市に基地を求め続けるよりほかは無いと思います」とつづられている。
梶山氏は96年1月〜97年9月に官房長官を務め、退任後も防衛庁幹部とともに現地を訪れて要望を聞くなど沖縄問題に傾注した。書簡の宛先は、98年7月まで続いた橋本内閣の「密使」として革新系の大田昌秀沖縄県知事(当時)との橋渡し役を担った下河辺淳・元国土庁事務次官。梶山氏の郷里・茨城の先輩でもあり、書簡は「愚考も参考にして頂ければ幸いです。下河辺先輩」と結ばれていた。
政府は名護移設の理由を「米海兵隊は司令部、陸上、航空、後方支援部隊を組み合わせて一体的に運用しており、普天間のヘリ部隊を切り離して移設すれば機動性や即応性を失う」などと説明している。しかし、書簡の出された前後の98年3月、大田知事らは来県した政府担当者に「海兵隊の距離や迅速性を挙げるなら揚陸艦をなぜ長崎・佐世保に置くのか説明がつかない」と指摘。政府側は「そのように言われるのは唐突な感を受ける」などと答え、議論はかみ合わなかった。
書簡は下河辺氏の記録を管理する「下河辺淳アーカイブス」(東京都港区)から、近く他の沖縄関係資料とともに沖縄県公文書館に寄贈される。

書簡の内容(抜粋)
○シュワブ沖以外に候補地を求めることは必ず本土の反対勢力が組織的に住民投票運動を起こす事が予想されます。
橋本内閣で官房長官として沖縄問題を担当した梶山静六氏が、政府の「密使」を務めた下河辺淳・元国土庁事務次官に宛てた直筆書簡の3枚目
比嘉前市長の決断で市として受け入れを表明し、岸本現市長が「受け入れ」のまま市の態度を凍結するとしている名護市に基地を求め続けるよりほかは無いと思います

【ことば】普天間移設問題
1995年9月の米兵による沖縄少女暴行事件に対する反基地感情の高まりを受け、当時の橋本龍太郎首相とモンデール駐日米大使が96年4月、移設を条件に米軍普天間飛行場の返還に合意した。しかし、移設先での基地固定化を懸念する大田昌秀知事(当時)による受け入れ拒否や民主党政権の迷走などを経て、現在も見通しは立っていない。安倍晋三首相は、海兵隊の一体的運用による抑止力などを理由に「辺野古移設が唯一の解決策」とするが、翁長雄志現知事は「何ら具体的根拠が示されていない」と反発している。