ビキニ核実験 事件は終わっていない - 朝日新聞(2016年5月12日)

http://digital.asahi.com/articles/DA3S12351877.html?rm=150

1954年に米国がマーシャル諸島ビキニ環礁を中心に繰り返した水爆実験で、周辺海域にいて被災したとされる高知の元漁船員ら45人が、国家賠償を求めて高知地裁に提訴した。
ビキニの実験は静岡県のマグロ漁船・第五福竜丸の被曝(ひばく)で知られるが、ほかにも多くの日本漁船が近くで操業していた。
当時の検査でも、船体や魚、船員の身体から相当量の放射線が検出された。だが、国はその後、健康状態の追跡調査すらしてこなかった。
一部の原告はことし2月、労災申請にあたる船員保険の適用も申請した。事件から62年を経て元漁船員らが立ち上がったのは、「自分たちの被害を認めさせたい」という切なる思いだ。国は真摯(しんし)に向き合うべきだ。
まず問われるのは、当時の政治決着の是非だ。日米両政府は55年1月、「見舞金」として米国が7億2千万円を日本に支払い、事件を「完全解決」とすることで合意した。
漁船が持ち帰った汚染魚に加え、第五福竜丸無線長の急死が日本中に衝撃を与えていた。反核・反米運動の高まりを日米両国が強く懸念し、決着を急いだとみられている。
船員らが米国の責任を追及する道は閉ざされた。国は放射能検査も打ち切った。見舞金は廃棄魚の代償として漁業関係者に配分されたが、船員らにはほとんど行き渡らなかったという。
日本は敗戦を経て、独立を回復したばかり。くむべき事情もあったにせよ、「国民不在」の幕引きだった感は否めない。
国はその後、事件は解決済みとの姿勢を貫いた。当時の放射能検査の資料も「ない」と言い続けたが、元船員らの支援団体が粘り強く要求すると、14年9月に延べ556隻の資料を開示した。誠実とは言いがたいこうした対応が、元漁船員らの不信感をさらに募らせた。
元船員代表の桑野浩(ゆたか)さん(83)は54年春のほぼ1カ月間、ビキニの周辺海域にいた。20人超の同僚は次々と早世し、生存は自身を含め数人という。桑野さんは「何が起きたかを国に明らかにしてもらい、同僚の墓に報告したい。なかったことにされたくない」と語った。
まだ多くの被災者が全国に埋もれている可能性がある。まず被害の全容をしっかり調べるべきではないか。
核実験による被害は「終わったこと」ではない。放射線は目に見えず、浴びた疑いがあれば、いつまでも苦しめ続ける。今回の裁判を機に、そういう核の本質もいま一度考えたい。