(筆洗)北陸電力の志賀原発など、一千億円以上もかけ再稼働を図るという - 東京新聞(2016年4月29日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2016042902000172.html
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チェルノブイリの地を、二度訪れたことがある。そこで書きとめた、かの地の人々の声を今読み返せば、苦い思いがこみ上げてくる。
原発事故から十年たった一九九六年の四月に現地入りした時、何度も聞いたのは、「悲劇は終わったのではなく、続いている」という言葉だった。だが悲劇は続いているだけでなく、繰り返されてしまった。しかも日本で。
ソ連政府は事故後もチェルノブイリ原発の再稼働にこだわり、三基の原子炉を動かした。最後まで動いていた三号炉が停止されたのは、二〇〇〇年の十二月十五日。その時、原発の元幹部は、こう語っていた。
「事故直後に完全閉鎖しておけば、チェルノブイリ原発を再び動かすために使った巨額の投資分で、エネルギー運用の効率化など抜本的な対策をとることができたはずだ」
日本はどうか。福島の事故後に新たに投じられることになった原発の追加安全対策費は、二兆円を軽く超えるという。北陸電力志賀原発など、複数の活断層があると指摘されたのに、一千億円以上もかけ再稼働を図るという。活断層の恐ろしさはその目にどう映っているのか。
チェルノブイリ原発の元幹部は、こうも語っていた。「国民が抱えるだろう重荷を直視せずに原子力政策を決めるという点では、事故後も何も変わってはいない」。この言葉もまた、今の日本を言い当ててはいまいか。