春の新聞週間を前に 自由な言論空間を守る - 東京新聞(2016年4月5日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2016040502000124.html
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春の新聞週間が六日から始まる。夏には参院選安倍晋三首相は在任中の憲法改正にも意欲を示している。メディアの役割がより重要なときとなろう。
「あなたの言うことに全く賛成できないが、あなたがそのように言う権利があることは、私は命をかけて守る」
こんな名言がある。フランスの思想家ボルテールが言ったともいう。自分に反対の意見であれ、尊重されねばならない。「表現の自由」の核心を突いている。
とくに主権者たる国民は意見を持ち、選挙で国政に反映させようとする。その判断をするためにも、多様な意見が大事だ。
◆自己規制なら敗北だ
自由な言論空間は果たして確保されているだろうか。それに疑問を投げかける出来事があった。
高市早苗総務相が、政治的公平性を欠いた放送をした放送局に「電波停止」を命じる可能性に言及した件だ。これに対する波紋が大きく広がった。
田原総一朗氏や鳥越俊太郎氏らキャスター有志が二月末、記者会見を開き、「電波停止発言は憲法放送法の精神に反している」という声明を発表したのだ。
同法は「放送による表現の自由を確保する」「放送が健全な民主主義の発達に資するようにする」などを第一条で定める。気になるのは声明の次のくだりだ。
<現在のテレビ報道を取り巻く環境が著しく「息苦しさ」を増していないか><「外から」の放送への介入・干渉によってもたらされた「息苦しさ」ならば跳ね返すこともできよう。だが、自主規制、忖度(そんたく)、萎縮が放送現場の「内部から」拡(ひろ)がることになっては、危機は一層深刻である>
キャスター有志は外からの介入・干渉というよりも、放送現場の自主規制に危機感を持つのだ。
◆「政権がチェックする」
例えば、デモを警戒している権力に気を使って、デモの批判的な映像を自粛する。今まで当然のようにやってきた掘り下げた問題提起は、政権批判と受け取られかねないので自粛する−。
街頭取材では、政権と同じ考えを話してくれる人を探して放送する−。そんな現場の声も聞かれるという。つまり自主規制や政権を忖度したような報道がなされはしないか。そんな息苦しさがテレビ・メディアの中に生まれてはいないか。
民主主義の根幹をなす、国民の「知る権利」から考えれば、放送はむろん政府のものではなく、たんに株主たちのものでもない。広く国民のものといえよう。もし、放送局の姿勢が揺らいでいるなら、それだけで国民は情報に対して疑心暗鬼に陥るだろう。
これはテレビ・ジャーナリズムだけの問題なのか。鳥越氏は記者会見でこう語った。
「メディアが政権をチェックするのではなく、政権がメディアをチェックする時代になっている。負けられない戦いで、負ければ戦前のような大本営発表になる」
政権がメディアをチェックする時代−。本来、権力はメディアに対して、特定の考えを押しつけることはできないし、メディアの自由な活動に介入することはもちろん許されない。今やまさに、「表現の自由」の領域が侵されつつあるのではないか。
自民党憲法改正草案を見てみよう。「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と定める憲法条文に、こんな規定を加えている。
<前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない>
つまり、政府や国会、司法が「公の秩序を害する」と判断したときは、言論も集会なども禁止される。そうならば「表現の自由」が否定されるのと同然ではないか。大日本帝国憲法にも、言論や集会、結社の自由を定めた条文があった。ただし、それには「法律ノ範囲内ニ於テ」という一文が付いていた。言論の自由は国民の権利だが、法律で例外をつくることができたわけだ。
自民党の草案にある「公の秩序」の言葉も同じ役目を果たす。原発反対や米軍基地反対、安保法制反対…、さまざまな声が「公の秩序を害する」と判断されれば、封印することもできる。
言論や思想が政府の統制下にあった時代がもしや蘇(よみがえ)りはしないか。そんな不安がよぎる時代になった。
◆権力には猜疑心を持て
そもそも権力という存在自体が信頼を寄せるものではなくて、常に猜疑(さいぎ)心を持って監視せねばならない対象である。
その監視役の一人として、私たちメディアは存在することをあらためて自覚したい。