広島の中3自殺 外された信頼のはしご - 東京新聞(2016年3月18日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2016031802000151.html
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子どもと向き合うとはどういう意味か。広島県の中学三年生が自らの命を犠牲にして投げかけた重い問いではなかろうか。学校はもちろん、親たちもよく考えてみたい。悲劇を繰り返さないために。
府中町立中学校の男子生徒が自殺したのは昨年十二月。
一年時に万引したとのぬれぎぬを着せられたうえ、その誤った記録を理由に、志望する私立高校には推薦できないと担任の先生から伝えられていた。
万引したのは他の生徒だった。なのに、パソコンには誤って男子生徒の名前が入力されていた。生徒指導の会議では人違いと指摘されながら元データは修正されず、そのまま進路指導に利用されたという。学校の調査結果である。
子どもの将来を左右しかねない重大情報が、かくも乱暴に取り扱われていた実態に言葉を失う。管理責任者さえはっきりせず、人権意識の希薄さが強く疑われる。
なぜ学校は取り返しのつかないミスを重ねたのか。
職場の多忙や風通しの悪さも浮かぶが、それ以前に、子どもへの無条件の信頼や愛情が欠けていたのではないかと考える。成長を喜び、支えるという血の通った教育が見失われていた、と。
昨年十一月、学校は私立高受験の推薦基準を厳しくした。万引などの触法行為があれば推薦しないとする期間を、三年時のみから一年時からの三年間にまで広げたのだ。不幸にも、男子生徒は対象者にふくまれてしまった。
失敗しながら成長するのが人間だろう。ましてや、多感な中学生である。秩序の維持ばかりを重んじ、未熟な生徒を導くどころか切り捨てる。そうした負の評価を優先する風土があったとすれば、およそ学びの場とは呼べまい。
男子生徒がなによりも深く傷ついたのは、万引記録は“冤罪(えんざい)”であると、担任がとうとう信じてくれなかったことではないか。教育現場にはそう見る向きもある。
精神的なよりどころとする相手に裏切られたと感じたとき、子どもは強烈なショックを受ける。「どうせ言っても、先生は聞いてくれない」と、生前、親に打ち明けた言葉には悔しさや諦めがにじんでいるようだ。
生身の子どもは日々変わる。蓄積された記録は成績であれ、非行歴であれ、過去の一部でしかない。教育の足場は常に現在に置かれるべきである。全国の学校で、家庭で、目の前の子どもをあらためて見つめ直したい。