大災害と政治 憲法改正が備えになるか - 朝日新聞(2016年3月14日)

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政府が国会に出した法案は、憲法違反ではないか――。
野党のこうした指摘を受け、3人の憲法学者参考人として衆院に呼ばれた。条件を付けた人もいたが、3人の見解はいずれも「合憲」。これを受け、法案は委員会の全会一致で可決、そのまま成立した。
昨年の安全保障関連法の話ではない。54年前、1962年の「災害対策基本法」(災対法)の審議でのことだ。

■「全会一致」の重み
政府が法案を提出したのは前年の61年。5千人以上の死者・行方不明者を出した59年の伊勢湾台風を受け、災害対策を体系化した基本法が必要だとの危機感からだった。
ところが法案には、災害時に国民の私権を制限する緊急政令の制定を内閣に認める「災害緊急事態」の条項が盛り込まれていた。これに対し社会党議員が、憲法は国会をへない緊急政令を許すのか、と問うたのだ。
三権分立の根幹を突いた指摘を自民党も無視できず、法案を成立させる際に災害緊急事態条項を全文削除した。条項の是非は、次の国会で改めて審議し直すことにしたのである。
政府は、緊急政令で制限できる範囲を狭めたうえでこの条項を再度提出。3人の憲法学者が合憲との見解を示したのは、この仕切り直し審議でのことだ。これを受け災害緊急事態条項は、野党の賛成も得て1年遅れで災対法に加えられた。
この経緯は安保関連法の審議とは対照的だ。昨年は衆院で3人の憲法学者がそろって「違憲」と断じ、多くの野党や国民が法案に反対した。それでも安倍政権は採決を強行した。

■権限集中の危うさ
「緊急時の国家、国民の役割を憲法にどのように位置づけるかは極めて重く大切な課題だ」
安倍首相は最近、こんな答弁を繰り返している。
自民党はきのう党大会で、憲法改正について「国民の負託を受けた国会で正々堂々と議論する」との運動方針を採択した。首相は、緊急事態条項の創設を、悲願である改憲の突破口にしようとしている。
自民党が12年にまとめた憲法改正草案の緊急事態条項は、首相が緊急事態を宣言した際、内閣は法律と同じ効力のある緊急政令を制定できるとしている。災対法と同様の内容だ。
ただし、この規定が法律にあるのと憲法にあるのとでは、その意味は決定的に異なる。
災対法の緊急政令は、災害時に不足が心配されるガソリンなどの譲渡制限や価格統制など、国民の財産権にかかわる3項目に限られている。極めて限定されているからこそ、憲法の範囲内と認められている。
自民草案には「法律の定めるところにより」とあるが、条文に具体的な限定はない。このまま憲法に規定されれば、内閣は幅広い権限を手に、私権の制限も可能になる。
また草案には、国などの指示に対する国民の順守義務も明記されている。思想、良心や表現の自由などは「最大限に尊重されなければならない」と人権に配慮する条文もあるが、裏を返せばこれらの権利にも制約がかかりうるということだ。
気がかりのひとつは、報道への規制である。「停波処分」をちらつかせる安倍政権の放送局への威圧的な態度をみれば、杞憂(きゆう)とは言えまい。

■何を想定するのか
東日本大震災を受け、災対法は改正が重ねられた。災害緊急事態の布告によって医療施設の設置や廃棄物処理などへの法規制に特例が認められたり、道路に放置された車両も撤去できたりするようになった。首都直下や南海トラフ地震対策でも、新法や改正法ができた。
災害への備えに万全はない。法に不備がないかは、国レベルで不断に点検されるべきだ。同時に、何より大切なのは、住民保護の最前線に立つ市町村長や知事らが法によってできることを理解し、あらゆる事態を想定し、訓練を重ねることだ。
憲法改正が備えになるのか。
昨夏、東北の被災地で災害法制について調査した日弁連災害復興支援委員長の中野明安弁護士は「被災自治体は政府の権限を強める憲法改正など望んでいない。むしろ、より多くの権限を持たせてほしいというのが被災地の意向だ」と語る。
災害法制に詳しい別の関係者は、現行法の想定以上に、自民党の緊急事態条項がどんな状況に備えようとしているのか、具体的に想定できないという。
「何のために」をあいまいにしたまま、危機をあおる。集団的自衛権行使の例として、安倍首相が、現実味に欠ける中東・ホルムズ海峡の機雷除去を例に挙げた時もそうだった。
大災害というリスクに対し、憲法を改めることが安全・安心につながるかのような改憲論は、逆に、必要な備えを置き去りにする危険をはらむ。責任ある政治の議論とは思えない。