(筆洗)どうにも最後まで聞くのがつらい人情噺がある - 東京新聞(2016年3月10日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2016031002000127.html
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どうにも最後まで聞くのがつらい人情噺(ばなし)がある。「柳田格之進」。名作だが、あまりの物語に腹も立つ。
浪人と、大店(おおだな)の主人が碁を通じて仲良くなる。浪人はたびたび店に招かれては、碁を打つようになるが、ある日、店の五十両が消える。番頭は浪人を疑う。浪人には覚えのないことできっぱり否定するが、耳を貸さぬ番頭はお上に訴えると迫る。
浪人は盗みを疑われた上にお上の手をわずらわせること自体が武士の名折れと腹を切る覚悟を固めるが、娘が気付いて思いとどまらせる。自分が吉原に身を沈め、五十両をこしらえるという。
罪なき人をよく確かめもせずに疑い、父娘の人生を狂わせた番頭がどうにも、憎らしい。物語と分かっていても身をよじる。そして、それ以上に胸の痛い現実の出来事である。
広島の中学三年の男子が自ら命を絶った。背景には、やってもいない万引を理由に学校側が志望校への推薦を断ったことがあるという。誤った「記録」が学校側に残っていた。生徒の「記録」とはその子の歴史であり、歩んだ道そのものであろう。それを学校側は間違って記録した。あまりにも軽々しく、悲しい。
生徒の混乱と絶望は想像に難くない。されど人生の結論だけは急いでほしくなかった。あの人情噺は最後は丸く収まる。それでも、生きてこそである。その若い命と誤記とではまるっきり釣り合わない。