樺太抑留に新資料…送還収容所で263人死亡 - 読売新聞(2016年3月7日)

http://www.yomiuri.co.jp/feature/TO000779/20160306-OYT1T50089.html?from=yartcl_popin


【モスクワ=緒方賢一第2次大戦後、ソ連樺太(現サハリン)と北方領土、千島で抑留した28万8655人の日本人の動きを網羅した記録群がロシア国立軍事古文書館(モスクワ)にあることがわかった。
帰国への最終関門だった送還収容所で263人が死亡し、強制労働に戻されたり治安機関に引き渡されたりした人を含めて1069人が帰国できなかった新事実を示す資料だ。死亡者については名簿と全員の死亡報告書があった。読売新聞は同館から393枚の文書を入手した。
日本政府は20年以上にわたり、軍事古文書館から資料を入手してきたが、この記録群は収集から漏れていた。厚生労働省は読売新聞の指摘を受け、急きょ死亡者名簿を入手。新年度にも大半の文書を取得する方針だ。

老母の嘆願書、抑留の息子救う「早く御放免を」 - 読売新聞(2016年3月7日)

http://www.yomiuri.co.jp/feature/TO000779/20160307-OYT1T50009.html?from=yartcl_popin


終戦直後、樺太に抑留された日本人の記録が残されていたロシア国立軍事古文書館からは、幼い孫娘2人を抱えて困窮していた老母が、ソ連軍に抑留された長男の解放を訴え出た嘆願書も発見された。
願いが聞き入れられ、家族はともに本土へ帰還。69年前の嘆願書を目にした孫娘は「家族を守ってくれた証し」と感慨を新たにしている。
「息子茂は収容せられ以来、帰宅致しません。聞くところによれば、現在は豊原で労役に服しております」
こんな嘆願書を送ったのは、南樺太・豊原(現サハリン州ユジノサハリンスク)で雑貨商を営んでいた久保山ハルさん(当時75歳)。1947年3月、息子茂さんの解放を求めて真岡の強制収容所ソ連軍指揮官などに宛てたものだった。
「女子供三人で日常生活にすら不自由がちなところ、私は老衰のため身の自由もきかず、困窮いたしております」と訴え、「内地引き揚げの命令がありましても、この有り様では到底、引き揚げはできません。茂を一日も早く御放免下さい」と便箋2枚につづられている。