2016年を考える 民主主義 多様なほど強くなれる - 毎日新聞(2016年1月1日)

http://mainichi.jp/articles/20160101/ddm/003/070/054000c
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18歳と19歳の若者が、今夏の参院選から初めて投票権を持つ。政治の新たな幕開けにあたり、民主主義とは何かを考えてみたい。
昨年は、日本の民主主義の成熟度が試された年だった。象徴的なのが安全保障関連法をめぐる論議だ。国民の多くが「議論は尽くされていない」と感じていたが、安倍政権は選挙ですでに国民の信任を得ているとして、採決を強行した。
民主主義とは選挙か、多数決か、少数派の尊重か、デモか。共通の答えを見いだせず、社会の分断は深まったまま、年が明けた。

社会の分断をどう防ぐ
社会の分断をどう防ぐかは、グローバルな課題でもある。
欧州では、難民の大量流入で、多文化主義が揺さぶられている。パリの同時多発テロが宗教間の憎悪をあおり、異なる価値観を否定する空気が各国で強まっている。
昨年のクリスマス、英国国教会の最高位聖職者であるウェルビー・カンタベリー大主教は、過激主義者を「違いを憎む者たち」と呼び、多様性への不寛容さが欧州全体に広がることに警鐘を鳴らした。
米国では、大統領選の共和党候補指名を争う実業家トランプ氏の極端に排外的な言動が世論を扇動し、社会に亀裂を生んでいる。
ポスト冷戦後の21世紀の世界は、「モデルなき世界」である。欧州も米国も日本も、分断から融和への努力を怠れば、民主主義が漂流し、社会は危機に見舞われる。
安全保障、原発、沖縄の基地、家族や地域共同体のかたちなど、私たちが直面しているのは国の行方を左右する、困難な問題ばかりだ。経済成長が矛盾を隠した過去の時代に、解決の手がかりはない。
選択と決定の連続を、社会全体でどう乗り越えるか。それがこの先、問われているのである。
全員が納得する決定はない。であるなら、可能な限り多くの人が受け入れ、不満を持つ人を減らす政策決定のあり方を模索しなければ、社会の安定は維持できない。
だからこそ、選挙で多数を得た側の力は、相手を論破するためではなく、異論との間に接点を探るため使われるべきである。批判や反対にも十二分な検討が加えられた、と少数派が実感して初めて、決定は社会に深く根を下ろすからだ。
国の未来に多様な選択肢が提示され、公平・公正な意見集約が行われる社会。その結果としての政策決定に、幅広いコンセンサスが存在する社会。それが民主主義が機能する強い社会と呼べるものだ。
100年前の日本に、大正デモクラシーと呼ばれる時代があった。国民が政治の表舞台に登場し、本格的な政党政治が始まった。
だが昭和に入ると、国際情勢の見誤りや経済政策の失敗もあり、民主主義は急速に衰退する。国民が自由に意見を言える社会ではなく、異論を認めない不寛容な社会になった。政党から闊達(かったつ)な議論が消え、日本は国策と針路を間違えた。
社会が多様性を失えば、国が滅びることもあるのである。

二つの潮流の分かれ目
日本の社会は今、二つの大きな潮流の岐路に立っている。
一つ目は、政治でも経済でも、国が目標を掲げて国民を引っ張る、国家主導型の社会である。
そうしたリーダーシップには、決断の正しさへの信念はあっても、国民への説明責任の意識は希薄になりやすい。国民が理解しなくても、歴史が評価してくれる、という独善に陥りがちな懸念がある。
もう一つは、一人一人が自分で情報を集め、考え、発言し、決定に参加する社会を目指す流れである。それは、自律した個人の多様な声が反映される社会のことだ。
民主主義を鍛え直すには、国民が決定の主役となる、後者の道を選びとるべきだろう。若者の政治参加もそのために生かしたい。
メディアも、公平・公正な報道で民主主義の一翼を担う。
民主主義に公平さ、公正さが欠かせないのは、政治的決定を社会に浸透させ、国論の分断を防ぎ、社会の融和を図るためである。
従ってそれは、多数決ではなく、少数意見の側がその選択の過程に納得しているかどうかで測られる、とも言えよう。メディアの公平さ、公正さも、異論や批判を多様に吸い上げることで確保される。
民主主義は、それ自体が目的ではなく、誰もが住みよい社会をつくりあげる手段に過ぎない。
20世紀前半に多くの作品を残した英国の批評家・小説家のフォースターに、次の言葉がある。
「民主主義には『万歳二唱』しよう。一つは、それが多様性というものを認めているから。二つ目には、それが批判を許しているからだ。この二つさえあればいい」
「民主主義とは何か」の答えは、これで十分ではないか。