「戦争してはならぬ」引き継ぐ 野坂さんに別れ - 東京新聞(2015年12月20日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201512/CK2015122002100003.html
http://megalodon.jp/2015-1220-1017-11/www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201512/CK2015122002100003.html

◆妻 暘よう子こさんあいさつ
飲んべえ、目立ちたがり、せっかち、うそつき、いいかげん。まだまだいっぱいあります。野坂昭如さん。
春の夜でした。私はそのとき十九歳のタカラジェンヌ。初めて会ったその人は、夜なのに真っ黒い眼鏡をかけ、グラス片手に早口でしゃべっていました。変なおじさんという印象でした。
夏の神戸、六甲山でプロポーズされました。何を言うかと思ったら「僕まつげがないんです」。外された黒眼鏡の下には、しっかりまつげがありました。きっと眼鏡の下の素顔を見てほしかったのだと思います。
二十一歳の花嫁は何も分からず、とんちんかんな新婚生活はコントのようでした。矢のように過ぎた日々。待っていたのは十三年間の介護生活です。私にとっては、とても長い年月でした。不安だらけの介護。押しつぶされそうになりました。いいことも悪いことも、どうにか越えてきました。
彼の周りにはいつも家族が集まり、小さな孫や猫が絡みついていました。二人の娘は「パパに寝間着は似合わない。いつもかっこいいシャツで」とダンディーな父親を守り続けました。野坂は満足だったと思います。
亡くなる間際まで言い続けた、大事な言葉。「戦争をしてはならない。巻き込まれてはならない。戦争は何も残さず、悲しみだけが残るんだ」
「火垂(ほた)るの墓」は世界で読まれています。日本の大事な一冊になってほしい。
野坂は生まれて二カ月で母親と離されてしまい、母親の顔を知りません。きっとそのお母さまが迎えに来たのでしょう。目を閉じた顔は美しく穏やかで、初めて見る表情でした。ちょっとうれしそうな笑みは、母に抱かれた昭如少年だったに違いありません。
今までお世話になった大切な皆さまに、野坂とともに心よりお礼を申し上げます。ありがとうございました。