野坂昭如さん死去 85歳 焼跡闇市派、「火垂るの墓」 - 東京新聞(2015年12月10日)


http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201512/CK2015121002000269.html
http://megalodon.jp/2015-1211-0931-54/www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201512/CK2015121002000269.html

親交のあった永六輔さんのラジオ番組に毎週、手紙を書いて近況を報告していた。七日の放送では、「(太平洋戦争開戦の)昭和十六年の十二月八日を知る人がごくわずかになった今、またひょいとあの時代に戻ってしまいそうな気がしてならない」とつづったばかりだった。
◆体験 基に警鐘鳴らし続け
亡くなった野坂さんは「戦争を知っている人間」の責務を常に感じていた人だった。
代表作「火垂るの墓」は、一歳四カ月で妹を栄養失調死させた過去がモチーフ。「戦争童話集」「一九四五・夏・神戸」など、戦争の闇を書き続けた。二〇〇〇年ごろから毎月一度、東京都内で「野坂塾」を開き、体験を語り継ぐ催しも始めたのもその表れといえる。
日本が敗戦から立ち直り高度成長期まっただなかの一九六二年、「プレイボーイ入門」で一躍有名になったころは長髪にサングラス、濃いひげ。テレビやラジオ番組に度々登場し、時に過激な発言で物議をかもした。夜は酒場。「両手にカンピー(缶入りたばこピース)を携えさっそうと入ってきた」と、当時を振り返る東京・新宿の酒場経営者もいる。
直木賞受賞の一報を受け、銀座で白いタキシードを注文し贈呈式に臨んだが、内心は強い不安にさいなまれ「この後、果たして書けるのか、この賞の権威を汚すに違いない」と思っていたと晩年の作品「文壇」で明かしている。
こうした派手な振る舞いと繊細な内面のギャップを抱えての行動は、しばしば周囲を驚かせた。
歌手として「黒の舟唄」を世に出したかと思えば、水田を購入して稲作に従事。「かくて日本人は飢死する」(二〇〇〇年)は、農業をないがしろにする日本の将来を憂える警世の書として注目された。最近も、安全保障をめぐる国の姿勢に警鐘を鳴らし続けた。憂国の士だった。 (久間木 聡)