(筆洗)銃規制問題の構図 - 東京新聞(2015年12月7日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2015120702000131.html
http://megalodon.jp/2015-1207-0911-34/www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2015120702000131.html

哲学者の土屋賢二さんが女性の入浴時間について、書いている。「(女性は)男性の数倍の時間をかけて入念に洗うのが普通である」。そういう現象はあるだろう。こう続く。「女はそこまで汚いのか、と思う」。読んで、噴き出す。そんな解釈もあるのか。
これも同じ現象を見ながら異なる解釈が交錯している。米国の銃規制問題である。米国民は先週、同じ悲劇を目撃したはずである。カリフォルニア州の銃乱射事件。十四人が亡くなった。
「だから銃規制を」。その声が上がるのは当然だが、同じ悲劇に別に声も上がる。「だから銃がいる」。乱射事件やテロの脅威が高まっているとすれば、身を守る銃を規制すべきではない。そう解釈する人もいる。
二つの解釈を前に、腕組みを続けるばかりで、いっかな解決の糸口を見つけられぬ。銃規制問題の構図である。
今回、大統領令による銃規制も検討されているが、銃の所持が認められている限り、大胆な規制は困難だろう。かくして腕組みは続く。
「今にも撃ってきそうな人物がいたら、どうしますか。脅威に対し、おびえるだけですか」。手紙への米作家カート・ヴォネガットさんの物騒な回答。「では、隣の家に飛び込んで、全員の頭を吹き飛ばしてください。みんな武装しているかもしれないですから」。まさか痛烈な銃批判が間違って解釈されることはあるまいな。