知事の意見陳述 基地めぐる虚構暴いた 司法は理非曲直見据えよ - 琉球新報(2015年12月3日)

http://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-181961.html
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間違いなく沖縄の歴史に刻まれる一幕だ。しかもその言葉の一つ一つが、積年の沖縄の思いを見事に言い当てるものだった。
辺野古新基地建設に向けた前知事の埋め立て承認を取り消した処分をめぐり、国が翁長雄志知事を訴えた代執行訴訟の第1回口頭弁論に知事が出廷した。知事は取り消しの適法性を主張する一方、沖縄の近現代史を踏まえて新基地建設の非道を正面から訴えた。その勇気と信念に敬意を表したい。
知事が陳述書で述べた通り、自国民の人権、平等、民主主義を守れない国が世界と普遍的価値を共有できるのか。この訴訟で問われるのはまさにそのことだ。
繰り返す光景
翁長知事は「日本には本当に地方自治や民主主義は存在するのか。沖縄県のみに負担を強いる今の日米安保体制は正常と言えるのか」と問い掛けた。そして裁判所に「沖縄、そして日本の未来を切り拓(ひら)く判断を」と訴えた。
その文言に感慨を禁じ得なかった。時代が一巡りし、再び同じ場所に至ったという感慨だ。
憲法の理念が生かされず、基地の重圧に苦しむ県民の過去現在を検証し、基本的人権の保障や地方自治の本旨に照らし、若者が夢と希望を抱けるよう、沖縄の未来の可能性を切り開く判断を願う」
今回の翁長知事の言葉と見まがうこの発言は、1996年7月、大田昌秀沖縄県知事(当時)が最高裁大法廷で述べたものだ。
嫌がる地主の土地を国が強制的に米軍基地として使おうとする手続きで、地主の代わりに知事が署名せよと求める代理署名訴訟でのことだった。首相が知事を訴えるという前代未聞の構図も今回と酷似する。何より、基本的人権や民主主義、地方自治という民主国家が最低限保障すべきものを、あらためて要望せざるを得ないという沖縄の状況が、何ら変わっていないことを思い知らされる。
いや、状況はむしろ悪化している。かつては沖縄の苦難の歴史に思いを致す空気が日本社会に濃厚だったが、今や沖縄側が政府に何か物申せば「生意気だ」という非難が陰に陽に示される。
つい先日も新基地建設反対運動に参加した市民を「けとばせばいい」と、「選良」たる兵庫県洲本市の市議が書いたばかりだ。れっきとした岐阜県の県庁職員も「馬鹿な沖縄県民は黙ってろ。我々は粛々と辺野古移設を進める」と書く始末である。
国の支離滅裂
それらを考慮した上でも、翁長知事の弁論は有意義だった。
こうした書き込みの背景には「沖縄は基地で食べているのだから、少しは我慢しろ」「沖縄は莫大(ばくだい)な予算を政府からもらっているのだから我慢しろ」という認識が潜んでいる。だが知事は、基地が恩恵どころか経済の最大の阻害要因となっている事実を、数字を挙げて証明した。「沖縄振興予算という特別な予算を沖縄は3千億円も他県より余分にもらっている」という認識も「完全な誤り」だと論証した。海兵隊が沖縄になければ機能しないという誤解も、過去現在の防衛相の言葉を引いて見事に論破している。
これら「基地経済」「財政的恩恵」「抑止力」という思い込みが「神話」にすぎないのは、県内では周知の事実だ。だが全国ではいまだに広く信じられている。知事は代執行訴訟という国民注視の場で訴えることにより、それらの虚構性を全国に発信したのである。
今回の訴訟で沖縄県が、基地の沖縄集中は軍事合理性の面でも合理性を欠くと主張するのに対し、国は「翁長氏は県知事にすぎない」と主張する。「安全保障上の判断は知事には無理だ」というわけである。一方で行政不服審査では防衛局は「私人」「一事業者」だと主張している。支離滅裂だ。
福岡高裁那覇支部はこれらの理非曲直を見据えてほしい。「人権の砦(とりで)」たるこの国の司法の公正性を、われわれに信じさせてもらいたい。