戦後の教育転換…退職決意  良心のとがめ解消されず:千葉 - 東京新聞(2015年10月12日)


http://www.tokyo-np.co.jp/article/chiba/list/201510/CK2015101202000150.html
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一九四五年の敗戦は、学校から軍国主義思想の一掃を迫る一方、教育の急激な転換に戸惑う教師もいた。
「昨日まで、お国のため兵隊さんになり、身を捨てて戦死するのが親孝行と教えていた。だが終戦になったら、手のひらを返し、敵国アメリカの言うとおりにしろと。自分でも教え方が分からなくなった」
石渡(いしわた)菊枝(90)=佐倉市、旧姓桧貝(ひがい)=は「良心がとがめて」、四六年三月に教壇を去った。
四三年九月、安食(あじき)国民学校(現在の栄町)の教師になった。朝礼では毎日、オルガンの伴奏で軍歌「海ゆかば」を歌った。「自分もタクトを振った」。夜間に空襲警報があれば、安食駅そばの下宿から学校の防空壕(ごう)に集まる決まりだった。宿直の男性教諭は「御真影(ごしんえい)」と教育勅語(ちょくご)を大事に抱えていた。
子どもたちには、「里の秋」の元歌詞「星月夜」の主人公の男の子のように、戦地の兵士に「お元気ですか」などと慰問文を書かせた。「慰問袋には、押し花や描いた絵も入れた」
四五年八月十五日。夏休みで帰省中、実家で玉音放送を聴いた。父が「無条件降伏だ」と涙をこぼし、戦争に負けたと分かった。一方で「警報で跳び起きなくてもいい」とホッとする自分もいた。
九月に授業が再開されると、「海ゆかば」は歌わなくなった。今までの事は教えられなくなり、「正反対の事を教えられるのか」。自問の日々が続いた。
六年生女子組の担任だった。下宿の大家に頼み、物置を借り、進学希望の女子に課外授業をした。結果、進学希望者は全員合格。「わが校始まって以来」と校長から褒められた。
成果を挙げたが、良心のとがめは解消されない。受験をやり切った解放感や、実家から「戻ってこい」と誘われていたこともあり、教職を退く決心をした。
退職を聞き付けた実家近くの学校長から「続けないか」と誘われた。でも断った。その後、二度と教壇には立たなかった。
=文中敬称略