<戦後70年「里の秋」の願い>複雑な思い 帰り待つ家族の希望に - 東京新聞(2015年10月11日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/chiba/list/201510/CK2015101102000144.html
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斎藤信夫が「里の秋」の三番を完成させたのは一九四五年十二月二十四日、放送当日の朝だった。川田正子(一九三四〜二〇〇六年)の歌に乗せて発表された歌は、出征した夫、父、子らの帰りを待ちわびる家族の希望となった。
終戦時、植民地や占領地など国外にいた日本人は約六百六十万人を数えた。厚生労働省が把握している引き揚げ者は今年三月末で約六百三十万人。県史によると、県では五一年までに軍人・軍属約七万三千五百人が復員、一般邦人約三万六千人が引き揚げた。
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食糧や住宅の不足、インフレなどが敗戦直後の日本を襲った。大黒柱不在の家族には、負担はいっそう重くのしかかった。
好口(よしぐち)恵子(84)=旧姓樋口、佐倉市=の父、伝(つたえ)は四五年五月、単身赴任先の満州(現中国東北部)で軍に召集された。四十歳を超えていた。同年八月九日のソ連(現ロシア)参戦を報じる記事に、父の部隊がいた場所で交戦があったと書いてあった。
「望みは捨てなかった。やさしくて大好きだった父の帰りをただただ待っていた。眠れずに泣いてばかりいたのを覚えている」
当時、山梨県に住んでいた。夜にコツコツと軍靴の音が聞こえると、「わぁ、お父さん?」と耳を澄ました。だが家の戸が開けられることはなかった。
蓄えを取り崩し三人の子を必死に育て、社会へ送り出した母に、安否を訪ね歩く金銭的余裕はなかった。父の不在は響いた。「そりゃもう苦労の連続。いい父だったから」。国が戦死を正式に伝えたのは五八年。「紙切れ一枚だった」
鷲尾清(73)=富里市=の父、常作(つねさく)は洋服の仕立て職人。東京で暮らしていた三十四歳の時、召集令状が届き、柏の部隊に配属となった。終戦時、鷲尾は栃木県赤見村(現在の佐野市)にいた。父の所在は分からず、「母はラジオの引き揚げ者情報を、毎日欠かさず聴いていた」
縫製の内職を鼻歌交じりで行う陽気な母。だが、敗戦から一年ほどたったある日、ミシン台や裁ち板のある部屋で終日、突っ伏して泣いていた。父がソ連で病死したと告げる公報が届いた日だった。ただ情報は断片的。二〇〇〇年のロシアからの追加情報で、満州長春ソ連の捕虜となり、四五年十二月三十一日に収容所で栄養失調のため亡くなったと分かった。
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「里の秋」について鷲尾は「のどかな風景から平和な印象を受けるが、父の不在で寂しさも感じる」と話す。この歌に、斎藤本人も複雑な思いを抱いていた。
「すでに戦死と分かってしまった家庭の方には、深い失望を与えた(中略)。(父の無事帰国を祈る)三番は、なくてもよかった(中略)。『里の秋』のような歌で喜ぶ人が沢山(たくさん)いる世の中は、余(あま)り迎えたくない」(成東町教育委員会編『童謡詩人 斎藤信夫のあしあと』) =文中敬称略 (服部利崇)
◆椰子の島から復員 習志野の織戸さん
インドネシアのハルマヘラ島で終戦を迎えた織戸(おりど)文夫(92)=習志野市=は別の島で捕虜生活を送った。「里の秋」の歌詞と同様、南の椰子(やし)の島から復員したのは約十カ月後の一九四六年六月だった。
散発的なゲリラ戦に悩まされたが、正規軍の大規模戦闘には巻き込まれずに済んだ。しかし捕虜になってからも生死の境をさまよった。マラリアで四〇度の高熱が出て三日間意識を失った。右目を失明しかけ、「動物性タンパク質を取ろうとヘビを食べて視力を回復させた」。船大工だった織戸は「二十貫(=約七十五キロ)のケヤキを肩で担げるだけの体力があったから生き残れた」と話す。
「戦争や捕虜生活は苦しみの連続で、理性が奪われた。望郷の思いというよりは、ただ白米が食べたかった」
生きて祖国の地を踏み、千葉へ帰った時、町の風景は戦禍で一変していた。しかし、変ぼうしたのは自分も同じだった。ボロボロの軍服に、底が抜けた軍靴。体重は五五キロから三〇キロにまで減り、栄養不足で髪も薄くなっていた。
稲毛にあった国の復員業務の出先機関に幾度も安否を尋ねてくれていた母は、戸を開けて入ってきた自分に気付かない。
「俺だよ」
その瞬間、母は抱きつくことも忘れ、「アーッ、アーッ」と言葉にならない悲鳴を上げ続けた。 =文中敬称略